錬金術の3つのシンボル  月

メソポタミア Mesopotamia イラク,シリアのティグリス,ユーフラテス両河流域地方を指す歴史的呼称で, 〈 (両) 河の間〉を表すギリシア語に由来する。この地域に人類最古の文明が繁栄した。 [地域と風土]  メソポタミアは,本来的にはバグダード以北の両河流域地方 (ほぼアッシリアに対応) を指し,以南を示すバビロニアと対立的に用いられたようである。アラブは狭義のメソポタミアをジャジーラal‐Jaz ̄raと呼んだ。のちにはメソポタミアはザーグロス山脈以西,アラビア台地以東,トロス (タウルス) 山脈よりペルシア湾岸に至るまでの両河流域を指すようになった。トルコの両河源流地方はメソポタミアには含まれない。  メソポタミアのかなりの地域は平原をなし,南部は大沖積平野である。たとえばシリア,イラク国境のユーフラテス河畔にあるアブー・カマール Ab仝 Kam´l は標高 170mほどであるが,アブー・カマールからペルシア湾岸までは 1140kmもの河川距離がある。またティグリス河畔バグダードからペルシア湾頭まではほぼ 900kmであるが,バグダードは標高 34mにすぎない。なお現在,両河は河口近くで合流し, シャット・アルアラブ川と呼ばれている。  メソポタミアの大部分はすこぶる高温であり,しかも降雨量は少ない。北部イラク,モースルの平均年降水量は 385mm程度であるが,南部のバグダードでは 7,8 月の平均気温は 34 ℃, 12 月,1 月は 11 ℃前後であり,しかも年降水量は 150mm程度にすぎない。天水麦作農業には少なくとも 200mmの年降水量が必要であるから,メソポタミアの低地地方では早くから人口灌漑による農業が行われた。しかし,両河水位は穀類が播種される秋に最も低く,春の収穫期に高くなるから,南部メソポタミアではエジプトのナイル流域地方とは違って両河および諸支流からの通年式灌漑システムが要請された。また増水期には氾濫の危険性が大きく,さらにユーフラテス流路が絶えず変わったから,この地方では水の統御が人間の生活にとって不可欠であった。しかし,灌漑農業は天水農業とは異なり,場合によっては驚異的な高生産力水準に達しうる。前 4 千年紀末,メソポタミア最南部で最古の都市文明が創出されたのも,このような高度の農業生産力を背景としていた。  なお古代のメソポタミア地方はアスファルトのほかには鉱物資源には恵まれていない。他地域から原鉱石を得るために余剰農業生産物,羊毛製品などを輸出するほかなかったのであり,このような交易システムは,かえって古代メソポタミアでの農業や家畜飼育の大発展を促した。またメソポタミアには周辺諸民族がきわめて容易に侵入しえたから,以下に概観を試みる古代メソポタミア史は諸民族の交替の歴史でもあった。 ⇒ティグリス[川]‖バビロニア‖ユーフラテス[川] [新石器時代]  前 1 万年ころよりクルディスターン地域で初めて農業と家畜飼養が開始された。のちしだいに村落はザーグロスの丘陵などに広まる。 ジャルモが典型的な遺跡であるが,ほぼ同時代のアナトリアのチャタル・ヒュユク,パレスティナのイェリコではすでに大町邑さえも成立していた。前 6 千年紀には東シリアのハラフ (ハラフ文化),北イラクのハッスナ (ハッスナ文化) などで,より進んだ村落文化がみられる。わずかに遅れてザーグロスの丘陵のチョガ・マミ, サーマッラー近くのテル・アッサッワーンTell al‐Saww´nなどにサーマッラー文化が成立した。前者は天水農耕成立のための限界降雨量の地域にあり,また後者では天水農耕はまったく不可能であった。実際,チョガ・マミからは最古の灌漑用水路跡が見いだされているし,テル・アッサッワーンでも確実に灌漑農業が行われていた。遺跡規模はきわめて拡大し,村落ないし町邑を取り巻く防衛施設も発展している。  ユーフラテス流域最南部のペルシア湾に至るまでの地域は,歴史時代にはシュメールと呼ばれた。ただし当時の海岸線は現在のそれよりははるかに北方にあった。シュメール地方では前 6 千年紀後半のウバイド期 (ウバイド文化) にはいってはじめて人間の居住跡が見いだされる。とりわけ最南部のエリドゥではウバイド 1 期から前 4 千年紀後半のウルク後期 (ウルク文化) に至るまでの時期に,原初的な小祠堂が大規模な神殿へと連続的に発展していた。この事実に注目する学者は,ウバイド期にすでにシュメール文化の原型が成立していたとみなす。ただし南部ウバイド文化の故地は明らかではない。 [シュメール・アッカド時代]  前 4 千年紀中葉のウルク期には,シュメール北部にも多くの村落遺跡が見いだされ,ウルク期前半にすでにニップール,アダブなどがほぼ都市的規模の面積に達していた。後期には南部のウルクが大発展を遂げ,巨大な神殿などが相次いで成立し,ウルク最末期には最古のシュメール語粘土書板も現れている。これ以後,前 24 世紀中葉までメソポタミア最南部でシュメール都市国家時代が続く。なおシュメール語は膠着語系に属し,周辺諸言語とは類縁関係をもたないから, シュメール人の起源については最終的な解答は与えられていない。またウルク期のシュメール文化はユーフラテス流域に急速に伝播し,シリア地方にもウルク期神殿を含む遺跡が見いだされている。粘土板による記録法は次のジャムダット・ナスル期末 (ジャムダット・ナスル文化) までにウルク以外の都市にも普及した。これ以後キリスト紀元ころまで粘土板は西アジア各地で記録書板として広く用いられ続けている。  前 3 千年紀初頭の初期王朝期I期には,シュメールに北接する地域 (のちのアッカド地方) に位置するキシュが勢威を有していた。伝承によれば,キシュは〈大洪水〉後に最初に全土の覇権を握っている (キシュ第 1 王朝)。キシュには早くからセム人が定住し,シリア,ユーフラテス中流域へのシュメール文化伝播に大きな役割を果たしたらしい。のちの叙事詩によれば,キシュ第 1 王朝の最後の王アッガはウルクのギルガメシュに敗北した。これはキシュの後,ウルクに支配権が移行した (ウルク第 1 王朝) とする他伝承と矛盾しない。一連のシュメール叙事詩においてウルク支配者の功業が語り伝えられている。とりわけ《ギルガメシュ叙事詩》はアッカド語,ヒッタイト語,フルリ語にまで書き移され,古代西アジア文学中の最大の作品となった。ギルガメシュは初期王朝期I期ないしII期に実在したと思われるが,この時期のウルク周辺では多くの小村落が姿を消すとともに,ウルク自体の規模も大膨張した。初めて城壁も建設されており,シュメール地方での軍事的緊張が高まっていたことが示唆される。  初期王朝期III期にはいるとシュメール政治史がかなり明らかになる。またウルの〈王墓〉は当時の都市支配者の富を示す。おそらく前 26 世紀末にラガシュではウルナンシェが現れ,王朝を樹立した。王朝の 5 支配者に続いて 3 支配者が多くの政治的碑文を残している。最後のウルカギナ (ウルイニムギナ) はウンマのルガルザゲシに敗北した。ルガルザゲシはウルク王になるとともに他都市をも軍事占領し,ここにシュメール都市国家時代が終わるが,のちルガルザゲシはセム系アッカドのサルゴンに敗れた (前 24 世紀中葉)。  キシュ王の高官であったサルゴンは,のち独立してアッカド王朝を樹立した。首都アガデの位置はいまだ不明である。サルゴンはシュメール地方を征服しただけでなく,東方エラム地方,ユーフラテス中流域のマリ,さらにはレバノンにまで軍事遠征を行い,最初の帝王として古代西アジアで長く記憶され続けている。またこれ以後セム人がメソポタミア最南部地方にも広く住んだ。第 4 代王ナラムシンはさらに多くの外征を企て,王朝版図は最大となったが,南部都市を核とする大反乱が発生,また東方蛮族グティ人も王朝内に侵入を開始した。次王ののち王朝はグティ人侵入により混乱に陥るが,南部シュメール地方は比較的平和であり,とりわけラガシュは繁栄を享受していた。  前 22 世紀後半,ウルクのウトゥヘガルがグティ人を駆逐し,さらに彼の子 (ないし兄弟) ウルナンムがウルで独立して,ここにシュメール人の統一王朝が成立した (ウル第 3 王朝)。 2 代王シュルギのとき王朝は最盛となる。治世後半には王は神格化された。度量衡も統一され,王朝各地での経済活動は活発であった。ニップール近郊には王朝内外からの無数の貢献家畜を点検する施設プズリシュ・ダガンも建設された。 5 代王イビシン時代までには西方セム系アムル人 (アモリ人) の圧力が強まる。イビシンの高官アムル系のイシュビエラはイシンで独立するとともに,各地を軍事占領した。またエラムの脅威もあって,前 2004 年ウル第 3 王朝は崩壊し,シュメール人は民族的実体を失う。  最古の粘土板文書 (ウルク出土) が神殿ないし王宮の財産管理記録であったことに示唆されるように,シュメール人は多くの行政・経済文書を残した。なお現存のシュメール文学テキストの多くは,ウル第 3 王朝崩壊後に書かれたものである。また楔形文字による粘土板記録は早くからメソポタミア各地に普及した。たとえばシュルッパク (現名ファラ) およびアブー・サラビクの文書 (前 26 世紀?) は,シリアの〈エブラ文書〉に酷似しており,ユーフラテス川による濃密な文化交流を示す。シュメール都市を神殿組織の複合体とみなす古典学説は,初期王朝期III期の〈ラガシュ文書〉研究の結果成立したものであるが,その普遍妥当性は疑わしい。またギルス (ラガシュ),ウンマ,ニップール,プズリシュ・ダガン,ウルから無数のウル第 3 王朝時代文書が出土している。 ⇒アッカド‖シュメール [イシン・ラルサ,バビロン第 1 王朝時代]  ウル第 3 王朝の崩壊後,南部メソポタミアではアムル人を中核とする小国家が分立した (イシン・ラルサ時代)。イシュビエラが創始した中部バビロニアのイシン王朝は,ウル第 3 王朝の政治理念を踏襲した。たとえば〈リピトイシュタル法典〉は,前代の〈ウルナンム法典〉を継承したものである。一方,より南部のラルサは,シュメール地方に覇権を樹立したし,ディヤラ川流域ではエシュヌンナが勢威を振るった。またユーフラテス中流域ではマリが交易中継地として繁栄し,マリからは前 18 世紀ジムリリム時代の文書が多数発見されている。バビロニアに北接する地域では,アッシリア人の都市アッシュールが前 19 世紀から前 18 世紀にかけてのシャムシアダド 1 世時代に有力となった。アッシリア人は早くからメソポタミアと小アジア間の通商を行い,カイセリ付近のキュルテペ (カニシュ) などには商業植民地を建設している。  バビロン第 1 王朝第 6 代王ハンムラピは,前 18 世紀中葉に南部メソポタミアの小国分立に終止符を打った (古バビロニア王国)。ラルサはリムシン時代にイシンを併合し,中・南部バビロニアを支配していたが,ハンムラピはマリと同盟するなどして国力を蓄え,ついにラルサを破り,メソポタミア南部を統一した。治世晩年に成立した〈ハンムラピ法典〉は,シュメール法とアムル慣習法の融合を示す。次王サムスイルナのとき諸市が反乱し,反乱鎮圧直後に諸市は経済混乱に見舞われ,ウル,ラルサ,ニップールなどは放棄された。また当時,より南方には〈海国 Sealand〉が存在した。以後王朝は北部バビロニアを基盤とするが,カッシート人 (カッシート) などの圧力に苦しみ,前 16 世紀初頭ヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。  イシン・ラルサ時代からバビロン第 1 王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っているから,統治体制,司法制度,商業,土地制度,尼僧制などに関して,みるべき多くの研究成果がある。 ⇒バビロン第 1 王朝 [カッシート人,フルリ人,ミタンニ王国]  西イランにいたカッシート人はサムスイルナ時代に南メソポタミアに現れたが,その言語はまだわかっていない。バビロン第 1 王朝の崩壊後カッシート人は前 12 世紀中葉までバビロニアを支配した。その際アッカド語を公用語として採用している。前 14 世紀には首都としてドゥル・クリガルズを建設した。カッシート支配下の南部諸都市は衰弱し,出土文書もきわめて少ない。  前 3 千年紀末にはフルリ人が北西メソポタミアに現れ,ウル第 3 王朝は盛んに対フルリ戦争を企てた。彼らの言語の詳細は不明。なお前 1 千年紀のウラルトゥはフルリ人の後裔による国家である。バビロン第 1 王朝の頃よりフルリ人は北部メソポタミア,東部アナトリア,シリア海岸地方に勢力を拡大した。前 16 世紀中葉,この地域にミタンニ王国が成立し,前 14 世紀中葉まで存続するが,人口の大部分はフルリ人であったらしい。ただしインド・アーリヤ人が支配階級を形成し,彼らを通じて馬,戦車がヒッタイトに伝えられた。ミタンニはエジプト王家とも婚姻関係をもったが,ヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。 [アッシリア]  アッシリア人は前 18 世紀以後フルリ人,ミタンニ王国の圧力下にあったが,ミタンニ崩壊にともない,前 14 世紀中葉に真の意味での領域国家に成長した。前 14 世紀以来,シリアおよび北部山岳地帯に接する領域を支配し,またバビロニアにも侵攻している。しかしこの頃,セム系アラム人が北部メソポタミアで有力となり,アッシリアは一時衰退した。のちアラム人の諸小国家はアッシリアの勢力回復とともに征服され,前 8 世紀末には政治的実体を失うが,アラム文字,アラム語は,メソポタミア全域に浸透した。とりわけペルシア帝国治下の西アジア全域でアラム語は最も重要な国際語として用いられた。  前 10 世紀中葉以後アッシリアは大発展を遂げた。 アッシュールナシルパル 2 世はティグリス河畔にカルフ (現,ニムルド) を建設している。前 8 世紀後半のティグラトピレセル 3 世のとき,地中海からバビロニアに至るまでを領有する大帝国が成立した。 8 世紀末のサルゴン 2 世はイスラエル王国を属州とし,またバビロニアではセム系カルデア人の抵抗を粉砕している。ニネベ近くには新都ドゥル・シャッルキン (現,コルサバード) も建設されたが,次王は首都としてニネベを再興。 エサルハドンのときバビロンを再興し,前 671 年にはエジプトを侵略,初めてメソポタミアとエジプトが統一された。次のアッシュールバニパルは上エジプト,テーベをも破壊している。アッシュールバニパルは文書記録の保存に熱心であり,ニネベに図書館を建設した。ニネベ発掘の際ここより出土した粘土板記録は,近代アッシリア学成立の基礎材料となった。同王の治世末期にはスキタイの侵入などにより帝国は弱体化する。  一方イラン高原では前 670 年ころメディア人諸部族が統一され,しだいにエクバタナ (現,ハマダーン) を中心に強盛となった。またカルデア人のナボポラッサルは前 625 年にバビロンに入城し,カルデア王朝 (新バビロニア) を樹立している。アッシリアの首都ニネベはメディア,新バビロニア連合軍によって前 612 年に破壊され,ここにアッシリア帝国は事実上滅亡した。  アッシリアの帝国形成は,卓越した軍事力と巧妙な外交政策によるところが大きいが,商業の繁栄,貢納・徴税による安定した財政も帝国維持に役立った。また道路網,駅伝制度もよく整えられ,これらはペルシア帝国に受け継がれた。前 8 世紀ころからは,帝国に編入した諸民族を大規模に強制移住させる政策も定着している。 ⇒アッシリア [新バビロニア時代]  カルデア (新バビロニア) 朝ではナボポラッサルに次いでネブカドネザル 2 世が現れ,絶頂期を迎える。バビロンは空前の繁栄を遂げた。ネブカドネザルはシリア,パレスティナをエジプトより奪い,前 586 年にはユダ王国を征服し,住民をバビロニアに強制移住 (バビロン捕囚) させた。彼ののち国は衰え,ナボニドスの治下,ペルシア軍により滅亡した。 ⇒新バビロニア [アケメネス朝ペルシア]  アーリヤ系ペルシア人はイラン高原に勢力を得て, キュロス 2 世のとき姻戚関係にあったメディア王を破り,都をパサルガタエからエクバタナへ移す。キュロス 2 世は前 539 年新バビロニアを破り,バビロニアを属州とした。王はエクバタナ,エラムのスーサとともにバビロンを首都としている。  新バビロニア時代からペルシア時代にかけて,メソポタミア,とりわけ中・北部バビロニアの諸都市は大繁栄した。出土文書もウル第 3 王朝時代に次いで多い。バビロンのエギビ一族,ニップールのムラシュ一族の文書は,商取引によって富を蓄えた階層の実態をよく示している。 ⇒ペルシア帝国 [セレウコス朝時代,パルティア,ササン朝ペルシア時代]  前 331 年ダレイオス 3 世がアレクサンドロス大王に敗北するに及び,ペルシア帝国は崩壊した。アレクサンドロスの死後,部下セレウコスがシリア,メソポタミアを支配した (セレウコス朝シリア)。ティグリス河畔にはセレウキアが建設され,後 2 世紀にローマに破壊されるまで,行政・通商の中心地として大発展を遂げた。ただしオロンテス河畔にはアンティオキアがシリア地方の都として建設され,その他にも多くの都市が成立した。またギリシア人も各地に入植し,メソポタミア地方にヘレニズム文化が広く普及した。  前 3 世紀中葉にはイラン高原にパルティア王国が興り,セレウコス朝と対立した。前 2 世紀中葉のミトリダテス 1 世はメソポタミアを占領している。さらに西方ローマの大発展とともに,メソポタミアはパルティアとローマの間の抗争の主要舞台となった。後 2 世紀の一連の抗争では,メソポタミアはほぼローマ属州として維持されている。  後 3 世紀の前半,ササン朝ペルシアがパルティアに代わってイラン高原を支配し,メソポタミアで再びローマと衝突した。たとえばシャープール 1 世はメソポタミアを占領, 260 年にはローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。しかし,この間シリアの都市パルミュラが勢いを得て,シャープール 1 世を破る。パルミュラはのちローマに屈した。 4 世紀中葉シャープール 2 世時代にはササン朝が強盛となり,再びローマとの争いが激化。この頃よりのササン朝とローマ帝国,続くビザンティン帝国との抗争の背景には,ゾロアスター教徒,キリスト教徒の処遇問題が大きな要因として働いていた。 6 世紀ホスロー 1 世時のササン朝の大発展ののち, 7 世紀にはビザンティン帝国にメソポタミアの大部分を奪われ,同世紀のアラブ占領にいたる。  パルティアはティグリス河畔の駐屯地クテシフォンを冬都とし,クテシフォンは続くササン朝時代にも首都として大繁栄した。この両時代に中・南部メソポタミアには灌漑水路網がはりめぐらされ,高い農業生産力が維持されていたらしい。最近の研究は,前 3 千年紀末のウル第 3 王朝時代およびササン朝ペルシア時代に中・南部メソポタミアが発展の頂期を迎えたことを示唆している。 ⇒ササン朝‖シリア王国‖パルティア 前川 和也

サーマッラー文化 サーマッラーぶんか サーマッラーはバグダードの北西 90km,ティグリス川東岸にあるイスラム期の都市遺跡で, 1912‐14 年の調査の際,都市跡の地下の墓から特徴的な彩文土器が発見され,メソポタミア先史時代文化におけるサーマッラー期の標式遺跡とされた。図式化したヤギ,鳥,魚などの動物と人間を幾何学文のなかに入れて,皿や浅鉢の底を中心とする一つの構図にまとめあげた彩文土器である。初めに発見された遺物が,優秀な彩文土器を主体とするものであったことから,輸入土器とか奢侈土器と見なされたが,ハッスナ遺跡IV〜VI層からサーマッラー式土器が出土し,北メソポタミア先史文化としてハッスナ期―サーマッラー期―ハラフ期の編年,あるいはサーマッラー式土器をハッスナ期に含めてハッスナ期―ハラフ期の編年に多くの研究者の合意がえられたかに見えた。しかし 60 年代に始まった北メソポタミア先史時代遺跡の発掘は,上記 3 文化が地域を異にし,すなわちサーマッラー文化は北メソポタミア南部に, ハッスナ文化はニネベ付近に,ハラフ文化はメソポタミア北部に,かなりの期間にわたって併存していたことを明らかにした。炭素 14 法による年代で前 6 千年紀といわれる。サーマッラー文化の起源はなお不明であるが,遺跡は降雨農耕可能地域の南側に分布し,実際にチョガ・マミでは運河の遺構が発掘されていることから,灌漑農耕を基盤とする最初の文化であったと考えられている。エンマー小麦,パン小麦,大麦,ヒラマメ,エンドウ,亜麻などが栽培され,野獣の狩猟をつづける一方,家畜として牛が重要な役割を果たしていた。小さな部屋が数個規則的に配置された日乾鮭瓦の家に住み,集落はかなり大きく,チョガ・マミでは 4 〜 5haと推測されている。 テル・アッサッワーン発見の墓から大量のアラバスター製容器とともに石偶が出土した。サーマッラー文化から南メソポタミアのウバイド文化へ発展したらしい。 小野山 節
ウンム・ダバギヤ Umm Dabaghiyah 北メソポタミアにおける最初期の土器をともなう新石器時代の遺跡。イラク北部,モースルの南西約 95kmにあるパルティア時代の都市遺跡ハトラの西方 26kmに位置する。炭素 14 法による測定年代で前 6000 年ころ。 1940 年代後半から 60 年代まで,この地域ではハッスナ遺跡が最古の農耕村落遺跡として著名であったが,断片的な資料しかなかった最下層Ia 期に並行する時期の資料がここで多く発掘された。遺跡は 100m× 85m,文化層の厚さ約 4mで, 71‐74 年に計 4 回,カークブライドD.Kirkbride が隊長として発掘した。 4 層に分けられ,どの層もすべてハッスナ文化以前に位置づけることができるので, プレ・ハッスナ文化,ウンム・ダバギヤ文化,あるいはテル・サラサートの発掘で確認されたことからサラサート文化の各名称が提唱されている。中央広場を囲む北東南の 3 面に小部屋列からなる倉庫群を配置し,西に居住区をつくっている。住民は穀物の栽培よりも狩猟にその食糧を依存していたようである。動物遺体の統計によると,牛,羊,ヤギ,豚などの家畜は約 11 %にとどまり,大部分が野生獣であり,なかでもオナジャー (野生ロバの一種) が 70 %を占めていることは,壁画にオナジャー狩りの場面を描いていることとともに,この遺跡の性格をあらわしている。発掘者は,この遺跡をオナジャーの皮製品の製作と交易の中心地と考えている。壁や床を白く塗ること,壁画や土器の浮彫動物文,打製石器の技法はレバント地方,アナトリア高原,ワン湖地域との関連を示し,とくに石器の特徴は,北方,北西方および西方の無土器新石器時代のそれに共通点をもつとされる。 小野山 節
ハラフ文化 ハラフぶんか シリアのトルコ国境近くのハーブール川沿いにあるテル・ハラフTel Halafで,ドイツのオッペンハイムM.F.von Oppenheimが 1911‐13, 29 年に発掘した彩文土器を標式とする北部メソポタミアの先史時代文化。この土器は西アジア陶芸の白眉とされるすばらしいものである。遺跡の主体は城壁をめぐらした古代都市グザナGuzanaで,アラム王国の王子カパラの前 900 年ころの宮殿があった。宮殿跡の調査に関連して深く掘り下げたとき,新型式の多数の彩文土器が出土したことから,のちにハラフ式土器と命名されたが,遺構の詳細は不明で,北部メソポタミア先史文化のなかに,ハッスナ期 (―サーマッラー期) ―ハラフ期―ウバイド期として位置づけることができたのは,他の遺跡における層位的発掘であった。しかし 1960 年代に始まった北部メソポタミアの新しい発掘によって,ハッスナ,サーマッラー,ハラフの各文化は,編年的順序というよりも,むしろ分布を異にするもので,ハラフ文化は北部メソポタミアの北辺からシリアに広がっていることが確認されている。従来のハラフ期を決めるうえで基準となっていたアルパチヤ遺跡の 10 〜 6 層のうち, 10 〜 7 層を中期とし,アルパチヤ 10 層以前を前期, 6,5 層を後期として,その間ハラフ文化は断絶なしに発展してきたと認め,ハラフ前・中期がハッスナ文化およびサーマッラー文化とほぼ並行して存在していたと考えられている。ハラフ後期の南メソポタミアはウバイド 2 期の時代であって,ウバイド 3 期になると,メソポタミア北部は南から拡張してきたウバイド文化に交代する。ハラフ文化の特色は彩文土器であって,水ごしした粘土を用い,良好な焼成で,スリップをかけ,よく磨研してある。多彩で幾何学文を主体として牛を代表とする動物,人物などを描いている。豊満な土偶,石製護符があり,スタンプ印章を使っていた。エンマー小麦と大麦を栽培していたようで,家畜として羊,ヤギ,豚,牛を飼育していた。方形建築の住居とともに特色のある建築としてドーム形とドームに方形をつけた形の,いわゆるトロス式建築がある。宗教的な機能をもつか,倉庫のようなものか,なお議論が続いている。なおハラフ期から銅利器,銅製装身具などの金属器が若干発見されているので,この時期を金石併用時代と一般に考えているが,冶金の証拠はないとする意見もある。 小野山 節

錬金術の3つのシンボル
太陽  

2006/03/12 (Sun)
唐草物語
聖樹ナツメヤシイグドラシルレバノン杉聖樹イチジク
アカシア|生命樹(?)街角のおまけ
聖樹文様 生命樹

笏(しゃく)Sceptre
|Ankhアンク| Djed pillarsジェド柱|Ouasウアス杖
ヘルメスの杖アスクレピオスの杖| |プタハ神の笏
聖獣文様 エジプトの目次

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