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世界大百科事典 第2版 - マルティリウムの用語解説 - キリスト教建築は,教会堂(聖堂),洗礼堂,記念堂(マルティリウム),墓廟,修道院,学校などからなる(コトバンク)
キリスト教は、当初から殉教者を出したが、その墓所に詣でて敬意を表する信者がいた。これをmartyrium マルティリウムといい、礼拝の場である教会と並び、キリスト教コミュニティの重要な中心となった。(Wikipedia)
一番分かりやすいWikipediaのビザンティン建築のページより以下引用(2015年2月22日閲覧)
初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカや、
450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院のアギオス・ヨアンニス聖堂
、
同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、
ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、
エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。
これらは全てバシリカである。
バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている
初期キリスト教建築として特筆すべきもう一つの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。
324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。
333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、
キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、
ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、
5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築は
すべてマルティリウムであるが、
崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。
また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。
5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。
このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。
聖遺物崇拝の起源
古代ローマ帝国は基本 的に寛容な宗教政策をとっていたが、三世紀以降にキリスト教徒の数が増加すると態度を豹変させた。特に デキウス帝Decius(在位二四九~二五一)からディオクレティアヌス帝Diocletianus(在位二八四~三〇五) にかけての大迫害時代には迫害が苛烈を極め、多くの殉教者がでた。
ローマ帝国による迫害の苛烈化は信仰の堅固化と信徒の増加をもたらしただけでなく、殉教者の遺 体を納めた墓所を崇敬の対象と変化させた。
アウグスティヌス『神の国』
アウグスティヌスの聖遺物崇拝に関する意図
聖人伝説と聖遺物崇拝の関係 中世における三大巡礼地は、イェルサレム、ローマ、そしてサンチャゴ・デ・コンポステーラである。し かし、それ以外にもトゥールの聖マルタンSaint Martin、カンタベリーの聖トマス・ベケットThomas Becket、 南イタリアのモンテ・ガルガノGarganoやフランスのモン・サン=ミシェルMont Saint-Michelにおける大 天使聖ミカエルSan Michele、シャルトルやフランス南西部のロカマドオールRocamadour における聖母マリ ア、ヴェズレーのマグダラのマリアなどの大霊場が存在し、民衆の身近な霊場としては古ゲルマン以来の「聖 別された土地」locus sanctusが各地に点在していた。
ヨーロッパ各地に広がった「真正なる」聖遺物を獲得しようとする情熱の高まりは、聖人の遺骸を移葬す るという強硬手段をとらせることになる。
サン・セルナン聖堂
→エミール・マールの古典的著作『ロマネスクの図像学』を読む