エフヴィン・パノフスキー(1892-1968)
「イデア」というとプラトンであるが、ここで、パノフスキーの『イデア―美と芸術の理論のために (平凡社ライブラリー) 』の中世の章を中心にみてみます
プラトン (Platon紀元前427年 - 紀元前347年)
プロティノス(Plotinus、205年? - 270年):新プラトン主義
イデア=永遠の価値を有する形相(⇒形 フォーム)
プラトンにとって芸術的創造の価値とは、学問的探求の価値そのものであって、その価値を測る尺度は、芸術的創造の中に込められた理論的洞察であり、より厳密には、とりわけ数学的洞察であった。
プラトンにとって、イデアの世界を開示すべきものは、芸術家ではなく弁証家(=哲学者)であった(序論p25)
プラトンが芸術を攻撃したのに対して、プロテノスは芸術から身を守ろうとする。
プラトンは真理のために「模倣術」を彼の国家から追放した。
プラトンにとって、芸術とは人間の内的な眼差しを感覚的な像にひきとどめ、イデア界を観照することを妨げるものであって、それゆえにこそ彼は芸術を断罪したのであった。(p55)
他方プロテノスにとって、芸術は人間の内的な眼差しをいつも新たに感覚的な像の上へとさまよいださせ、イデア界へと視野を開きながらも、同時にそれを覆い隠してしまうという悲劇的な運命をもつものであり、それゆえに彼は芸術に有罪を宣告するのである。
感覚世界の模倣として捉えれ芸術作品はより高い精神的意味を、(あるいは象徴的な意味を)欠くことになる。しかし他方、イデアの開示として捉えれば、芸術作品はその本来の妥当性と独立性を欠くことになる。従ってイデア論は、その本来の形而上学的立場を捨てようとしない限り、かならずやこのどちらかを芸術作品に拒否することになるように思われる
ピロストラトス(Flavius Philostratusc. 170/172 – 247/250)
絵画を愛さないものは、真理にも知恵にも不正をなすものである。(『エイコネス』)
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年- 430年)
アレクサンドリアのフィロン(Philon Alexandrinus、 元前20/30年? - 紀元後40/45年?)
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃 - 1274)
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃 - 1328年頃)
「美しいものはそれ自身のうちで幸福に輝いているように見える」というメーリケのことばとは全く逆に、新プラトン主義の美学観によれば、美の現れは全て、より上位の美の現れの不十分な象徴にすぎない。
この美学観は、古典後期の芸術作品を古典古代の芸術作品から区別する象徴的―精神的性格と驚くほど一致するものであったが、初期キリスト教的哲学に受けつがれることができた。
アウグスティヌスの芸術観は新プラトン主義の芸術感と完全に一致する
イデアを独立した「真実在」として捉えるという、キリスト教の立場からすれば受容しがたい捉え方も、すでにユダヤ教や異教の先人たちによってその意味を大きく変えられていたために、容易に受け入れることができた。
プラトンの形而上学的な本質存在は「デミウルゴス」が世界を形成する際に、いわば先住するものとして自らの現前に見ていたものであった。 既にフィロンによって、こうした本質存在は神の精神に内在する固有の産物としてとらえなおされていた。
アウグスティヌスは、ただ新プラトン主義の非人格的な世界精神をキリスト教の人格神に置き換えるだけで、彼の立場から受容しうる見解を獲得することができたのであり、中世全体を通じて権威をもつことになる(p60)
プラトンの見解では、イデアはあらゆる点で絶対的な存在とされたが、アウグスティヌスにまで至りつく一連の展開の中で、イデアはまずの内容創造的な世界精神へ、そして最後には、人格神の思惟へと変容していった。
元来は人間精神の働きを解明するために、あるいはむしろ、その働きを正統化するためのものだったことは次第に忘れられていった。
人間理性の哲学⇒神的思惟の論理へ
13世紀のアリストテレス復興の後でも、イデア論は中世全体を通じて生命を保ってきた。
中世思想家の「三つの高次の問い」
1.イデアあるいはマイスター・エックハルトの言葉でいえば、、創造された事物に「先立つ像」は、神の中にあるのか。
2.多くのイデアがあるのか、それともただ一つのイデアがあるのか
3.神はイデアを通してのみ諸事実を認識しうるのか。
アリストテレス:人間精神に対して非超越的な「内的形相」という意味においてイデアを捉える
プラトン:神の精神をも超えて「自体的に」存在する本質的存在をいう意味においてイデアを捉える
⇒イデアの定義も、アウグスティヌスの議論だけが引用されるようになる
エドゥアルト・フリードリヒ・メーリケ(Eduard Friedrich Mörike, 1804年- 1875年)
本来の意味での芸術的「イデア」について語ることがほとんどできなかったことは明白
イデアを生みだして懐抱することは、神の精神の特権となった
中世哲学で芸術家の創造過程を述べるのは、神の精神の本質と精神を理解しやすくするためである。
中世的思考にとっては、本来の形而上学的意味におけるイデアからではないにせよ、作品に先立つ内的な形相もしくは「準イデア」から出発して芸術家が制作を行うということが、動かし難い事実としてとらえられていた。それゆえスコラ哲学が芸術を比喩の対象として引き合いに出す際に建築家の例を最も好んだことは、偶然ではない。
芸術はできるかぎり自然を「模倣する」あるいは「手本にする」ものだという主張で理解すべきことは、すでにアリストテレスにおいてそうであったように、ただ両者は並行関係にあるということであって、両者に関係を設けるということではない。
ここで言う芸術とは、三つの「素描的」芸術(絵画、彫刻、建築)とは異なる、さまざまな「技芸」(artes)として理解されるべきだが、それは自然が創造したものを模倣するのではなく、自然が創造を行うその仕方で、一定の手段で一定の目的を達成したり、一定の形相を一定の質料の中に実現させつつ、制作を行うのである
中世の考え方によれば、芸術作品は19世紀にはっきりと表明されたように人間が自然を考察することから生まれるのではなく、内的な像を質料の中に投影することによって生まれるのであって、その内的な像は、それをただちに神学的用語となった「イデア」概念であるとみなすことはできないにせよ、やはり内容的にはこの概念に例えうるものなのである。
ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 - 1321年)
クリストフォロ・ランディーノ(Christoforo Landino 1424年 - 1498年)
芸術は三つの段階で出会われる。すなわち、芸術家の精神のなかにおいて、道具において、そして芸術によって形相を付与された質料において。(『帝政論』第二巻二章)
芸術が三つの段階において、すなわち、芸術の精神において、彼の道具において、芸術によって造られる物質において見出されるように、われわれは、自然を三つの異なる段階において(すなわち、その創造者としての神において、その道具としての天において、又物質において)観照しうる。
ランディーノによる『神曲』「天国篇」第13歌注解イデアとはプラトンによって創出され、アリストテレスによって反駁された名辞であるが、この反駁には真の論拠が無かった。プラトンには、キケロ、セネカ、エウストラティウス、アウグスティヌス、ボエレィリウス、アルテウィディウス、アルキディウス、そした他の多くの人々が賛意を示している。
ダンテは巧みに次のように述べている。すなわち、「イデア」が、すなわち「イッディ―オ」(神)であるのは、「神のうちにある」(イン・ディーオ)ものが「イッディ―オ」であり、「イデア」は神のうちにある(イン・ディーオ)からである(p274)
以上、中世部分、この後、ルネサンスとマニエリスム、古典主義に続くのだが・・・・
レオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci 、1452年 - 1519年)
中世の考え方に対して、イタリア・ルネサンスの芸術論や芸術史の著作は、芸術の課題が現実の直接的な模倣であることを強調した。こうした主張を行うことがどれほど決定的でまた不屈の意志を要したかは、これまで述べてきたことから初めて理解され得るだろう。
芸術作品は現実をその模範通りに忠実に再現するという考え方は、まず最初、古代においては自明のことであったが、新プラトン主義によって根絶やしにされ、中世にはもはやほぼ一顧だにされなくなっていた。
ルネサンスでは天才と自然との矛盾が気付かれていなかったのと同様に、天才と規則の矛盾も気づかれていなった(p104)
この時代に変容したイデア概念は、何よりも、まだ全く対立し合うものでなかったこうした二項の和解「をこそ表現している。つまりイデア概念は、現実の要求に対して芸術家の精神の自由が確保されていると同時に制限されていることを示している。
ミケランジェロ(Dante Alighieri、1265年 - 1321年)
デューラー(Christoforo Landino 1424年 - 1498年)
カント(Immanuel Kant, 1724年- 1804年)
アロイス・リーグル(Alois Riegl、1858年 - 1905年)(Wikipedia)
※このあたり、話が難しいのだが、概略こういうことで置いておきます・・(アロイス・リーグル (2012年2月)こちらへ)
追記として、
訳者のあとがきより
==以下引用===========
パノフスキーは、1915年に論文「造形芸術における様式の問題」(『芸術学の根本問題』所収)を発表し、様式論的美術史の批判を行っている。彼によれば、有る時代の根底に有ると言われる様式は、当該外の時代にいわばに内在する「形成―意思」(Gestaltungs-Wille)から発しており、この意思の基礎は原則を同じくする心の態度であって、決して眼の態度ではないのである。(p398)
パノフスキーが述べている「形成―意思」とはウィーン学派の始祖アロイス・リーグルがかって説いた「芸術意思」の概念に関わっている。
リーグルはヴェルフェリンに先んじて、資格形式としての様式の展開を美術史に見たのであるが、ただし彼においては、各時代に固有な「芸術意思」(Kunstwollen)が想定さrたのである。
パノフスキーは、1920年に発表した論文「芸術意思の概念」(『芸術学の根本問題』所収)において、リーグルを評価しつつ、自らの理論を精緻化している。他方、パノフスキーの理論的形成において、もう一人重要な人物がいた。それは、ハンブルク大学の同僚であった、哲学者のエルンスト・カッシーラーである。(新カント派 『シンボル形式の哲学』)(p399)