鯱戈(しゃちほこ)と鴟尾(しび)
2020年4月19日放送のNHK「チコちゃんに叱られる」の
「年末の再放送の、録画」(笑)をやっと見たのだが、
お城に「しゃちほこ」があるのは、 織田信長へのリスペクトという話であった。
信長が1579年に安土城を作たとき、初めて、しゃちほこを乗せたという。
それまでの城というものは、土でできた要塞というものであったが、
信長は、城をシンボルとして考えた。
信長は、「中国の宮殿の屋根のように竜をのせたいと思った」とする・・
ここ、どうだろうか・・権力者の住まいということで、さもあらんとは思うが、
私が「しゃちほこ」関連で、まず浮かぶのは東大寺の鴟尾(しび)である・・・
wikipediaによれば、
寺院・仏殿、大極殿などによく用いられる。後漢以降、中国では大棟の両端を強く反り上げる建築様式が見られ、これが中国などの大陸で変化して3世紀から5世紀頃に鴟尾となったと考えられている。
唐時代末には鴟尾は魚の形、鯱(海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)の形等へと変化していった。瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと考えられている。火除けのまじないにしたといわれている。
(紫禁城の屋根の上)
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Imperial_roof_decoration
「この竜は胴体がないイメージ。
頭だけだと、武士にとっては打ち首のようなもので縁起が悪い。
そこで 信長が目を付けたのが鯱(しゃち)」である、という。
鯱は
漢字では魚偏に虎であるが
鯱は頭が虎もしくは竜で胴体が魚の中国の空想の生き物であるという。
しゃちほこを漢字で書くと
鯱+戈
安土城は築城後わずか3年の1582年の本能寺の変で、焼失した。
その後、秀吉が、天下統一のシンボルとして大阪城をつくるとき、
しゃちほこをのせ、
以後の城は信長型でしゃちほこをのせるように命じたという。
そこから、お城に「しゃちほこ」があるのは 織田信長へのリスペクトであるという話であった。
お城の屋根の定型になったといういことは良いとして、広島城(博物館)おうちでミュージアムでの解説は、
天守閣などに見られる「しゃちほこ」は、想像上の生き物である「鯱」(しゃち)をかたどった瓦や木造銅板張の飾りで、口から水を吐くという言い伝えから火除けのために屋根に置かれたとされます。
・・といった解説が一切なかったのは不満
・・中国において竜は水の生き物。
立川武蔵教授の見解ではhttps://karakusamon.com/makara_tatikawa.html
名古屋城の金の鯱鉾は、
明らかにマカラのイメージを踏まえている。
中国の旧王城や寺院建築にはそのようなマカラ像が数多く残っている。
中国のマカラはインドに比べてウロコが目だつ、魚のイメージに近くなっている。
水にすむマカラが屋根の上にまで上がったのは 「雨乞い」のためであると同時に
「火伏せ」の役目を科せられていたから。
どうも復習が必要ですね・・
Detail on tiled roof of the Castle Keep Tower at Hiroshima Castle — in Hiroshima, Japan.
現在の鯱瓦(復元)。
広島大学 名誉教授三浦 正幸 先生から、、
現存最古のしゃちほこは広島城の口紅をつけたしゃちほこで、
安土城のはこんなであったかという話。
姫路城の しゃちほこ:しゃちほこイレブン(11もしゃちほこを載せている城)
また、江戸城の大手門にも、「奇蹟のしゃちほこ」が無料公開されているという。
(江戸城にあったしゃちほこで、明暦の大火(1657年)で焼失した後、1659年(万治2年)に大手門が再建されたときのもの。
大手門は1945(昭和20)年 東京大空襲で燃失した、これだけ残ったという。http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/kokyo/otemon/index.htm)
ウィキペディアにはもう一つの項がある
金鯱 – Wikipedia
金箔押の鯱瓦の例(岡山城天守3重棟上)