聖樹聖獣文様
3世紀以前にさかのぼるキリスト教美術は今のところ存在しない。 最初期の美術は慎ましい葬礼美術。 4世紀の「教会の平和」以後は複雑な図像プログラムに基づくモニュメンタルもの。
そこで 3~4世紀の美術で聖堂装飾の発生を見る、ということだったので、 見てみますが、その前に、「キリスト教図像の形成」ということで、勝利門(もしくは凱旋門型アーチ」という言葉の説明で、「西欧の思想や美術には世界帝国の統治理念が時を隔てて、姿を変えながら、継承されてきた」こと、「具象的な画像表現には反対の立場を取ると言われてきたユダヤ教シナゴークの方がキリスト教に先駆けて、イスラエル民族に対する神の加護を記録したモニュメンタルな壁画を既に制作していたこと」(辻佐保子)
"Dura Europos baptistry overview".
ドゥラ・エウロポス、キリスト教徒の家、洗礼室 3世紀半ば以前 アメリカ エール大学美術館
Dura-Europos,House of Christians(Domus Ecclesiae),bapristry.
Yale University Arc Gallery,Dura-Europos Archive/Collection
西側洗礼槽・・アーチ:カタコンベのアルコソリウムarcosoliumの形
キリスト=アダムを下敷き旧約のアダムと新約の善き羊飼いとしてのキリストを予型論Typological interpretation的に対比(別格化は認められない)
残りの3壁面は上下2段・上はキリストの奇跡物語、楽園風景、下は堂々とした人物群、聖墳墓参りの「乙女」
軸は典礼と機能の明示
明暗の対比的表現だが、それはシナゴークにも見出される
表現の典拠はユダヤ人キリスト教徒の手になる「ディダケ―(十二使徒の教義集)」(※1)の二つの道の対比=「生命の道
」「死への道」・・クムラン(※2)の規律教本に負うもの by「聖堂装飾プログラム の発生と展開」宮坂朋 p350
※1 ディダケ―Didache: 最初のカテキズム(教理問答)と見なされ、洗礼(バプテスマ)と聖餐、キリスト教の組織についての三つのおもな項目からなる。2世紀初め シリア(Wikipedia)
※2 死海文書(しかいもんじょ、英語: Dead Sea Scrolls)あるいは死海写本)は1947年以降死海の北西にある遺跡 ヒルベト・クムラン(Khirbet Qumran) 周辺で発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなっている。紀元前250年ごろから紀元70年。(Wikipedia)
Wikipediaより以下引用
ドゥラ・エウロポスからは、判明した中ではもっとも初期のキリスト教の教会堂も発見されている。
「ローマの大きな兵営都市の只中に、教会が公然と許容されて存在したということは、初期のキリスト教会の歴史が、異教による迫害を受け続ける一方だったという単純なものではなかったことを明らかにしている」[bySimon James]。
洗礼室に残っていたフレスコ画は、おそらく現存最古のキリスト教絵画とされる(初期キリスト教美術)。この中には、「よき羊飼い」「中風の人を癒すイエス」「水の上を歩くイエスとペテロ」などの図像が見られるが、これらイエス・キリストの描かれた現存最古の絵画は235年に遡るとみられる。
洗礼室のより大きなフレスコには、大きなサルコファガス(石棺)へと近づく二人の婦人が描かれている(もう一人婦人が描かれているが、ほとんど失われている)。おそらくこれはキリストの墳墓を訪れる三人のマリアとみられ、サロメの名は婦人の一人のそばに書かれている。またアダムとイヴやダビデとゴリアテを描いたフレスコもある。これらの絵画は明らかにヘレニズム・ユダヤ教の図像学的伝統に基づいているが、すぐ近くのシナゴーグの絵画に比べると仕上げは雑になっている。
※ヘレニズム・ユダヤ教"the Hellenistic Judaism"
3世紀のキリスト教カタコンベ・・一見取りとめのない印象
非キリスト教徒のカタコンベ墓室壁画の「図像サイクル」はより明確・・「到着」「審判」「楽園」「会食」・・古代末期の人々にとって、死後の世界はとりもなおさず、ウェルギリウスの『アイネーイス』第6巻に描写された世界であった(p352)
キリスト教カタコンベ壁画におけるプログラムの萌芽状態
天井にはドームを模した建築構造を描き、それを羽根の生えたプット―、鳥、四方向からの風など天空にふさわしいモティーフで満たす。
天空四隅に配される両腕を挙げて祈る男女のオランス像は、中央の天蓋を支えるカリアティド(人像柱)の役割を果たしている。
天井中央のメダイヨンには「善き羊飼い」・オルフェウスなど最も重要な主題が選ばれ、中央メダイヨンのキリストの近くにしばしば魚(イクトゥス)が置かれその周囲に大地や天空の象徴を配して、宇宙論的構造がなされる。
建築構造線は4世紀に入ると単なる区画線となり、それに限定されたパネルには聖書のエピソードが充填されるようになる。パネルにしばしば「ヨナ」の物語(旧約聖書)が表される (先行するユダヤ教美術作品のモデルが考えられる
「女性図像サイクル」・・女性を主人公としたエピソードのみをまとめるやり方
※アルコソリウム(アーチ型壁龕墓)はしばしば石棺浮彫装飾を模倣する。
アーチ内側には一般的な主題であるプット―による蒲萄収穫場面や四季の労働場面が描かれる。
ブドウの収穫によって終末の、あるいは
四季によって永遠の 設定がなされ、異教・世俗起源の主題であった授業風景(←?教えを授ける)を終末におけるキリストの再臨にまで格上げすることに成功していると言える。
ヴィア・ラティナのカタコンベにおいては、墓室ごとにテーマがかなり明確に打ち出されている
"CatacombViaLatina Resurrection of Lazarus"
■https://www.romansociety.org/ イメージサーチあり
■https://gordon-bruce-art.hubpages.com/hub/images-of-jesus-christ
■ローマ・カタコンベの天井装飾
by宮 坂 朋 https://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/.pdf
4世紀を上限とする地上の聖堂装飾の全貌を知ることは不可能。
断片的に残された作品からの推測
"1418 - Milano - S. Lorenzo - Cappella S. Aquilino - Apoteosi di Elia -
わずかに残された聖堂の中でもっともカタコンベ装飾に近いものは、ミラーノのサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂に付属して建てられたサンタクィリーノ礼拝堂・・
八角形プラン(8=天地創造とキリストの復活を表す数字)
「エリアの昇天」と
「使徒に教えを授ける」
つつましい一般な信徒の墓を飾る(ローマのカタコンベの)絵画が逆に聖堂の荘厳な装飾になった(ものと考えられる)(p356)
殉教者崇拝儀礼(殉教者の都でもあったローマ)⇒ミラノ
城壁の外側という立地条件、葬祭図像の借用
ローマのサンタ・プディンツィア―ナ聖堂Basilica di Santa Pudenzianaに残るアプシス・モザイク
威容あふれる作品
モードの決定的な変貌
ローマの地に高揚しつつあった教会イデオロギー
政治的には何の重要性もなくなっていた都市がキリスト教世界の首都としての再生をかけて、肯定的様相のもとにたちあらわれつつあった
玉座のキリストと十二使徒の集い 5世紀初め
Christ in Majesty between the Apostles.Roma,Santa Pudenziana,mosaic of the apsis.
ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂
カナンの使者(上の図)、石を投げられるモーセとその仲間(下)
Explorers from land of Canaan(up),People of Israel threw stones at Moses,Aaron and Joshua(down). Roma,Santa Maria Maggiore,mosaic of the nave
https://www.paradoxplace.com/Perspectives (c430)
ヨルダン川を渡る契約のアーク(上)、エリコに斥候を送るヨシュア
Crossing of Jorodan with the Ark(up),Jaoshua sends the explorers to Jericho(down).
Roma,Santa Maria Maggiore,mosaic of the nave
更に推し進められる傾向。(皇帝的様相
)
救済史的な歴史観:旧約は準備期間
キリストの到来により世界は完成し、終末的未来を指し示す、というものもの
6世紀に入ると、インド航海者コスマス※によって「キリスト教地誌」が表され、キリスト教的宇宙論が提出される。
彼の「オイコス(家屋)型」宇宙観こそ、神の家をしての聖堂装飾プログラムを解釈するためのパラダイムとなるものである。
5世紀のバシリカ型聖堂装飾は救済史に重点を置いている、しかし進路において、時間は常に週末として規定されている。この点でカタコンベ装飾と比肩しうる点が多い。(p337:まとめ)
※コスマス・インディコプレウステス
Kosmas Indikopleustēs:
6世紀のアレクサンドリアの商人(コトバンク)
《キリスト教地誌》12巻(550年ごろ)
初期キリスト教徒の墓は、世の終わりに臨んでの肉体の復活、最後の審判、永遠の命を希求するため、すべて土葬で、死は「眠りdormitro」あるいは「預託dapositio」であると考えた
3世紀キリスト教美術の特徴としては、後に引き継がれることのなった試行錯誤的な図像、あるいは、非常に象徴的な図像の存在が指摘できる。
例:クローディウス・ヘルメスの霊廟の屋上の壁画=キリストの行った事蹟が通常とはまったく異なる図像で示される
4世紀における新しい主題聖人の登場:4世紀の絵画における聖人の姿は、殉教に苦しむ姿でなく、死後のキリストによる審判に陪席して、使者をキリストに対して取りなす姿で描かれる
4世紀後半、聖人崇拝がますます盛んになるに従い、教会は聖遺物を教会財産とし、聖遺物の奇跡を行う能力が公認された。聖人伝の整備。聖人図像の発展・定型化。
5世紀 カタコンベは墓地としての機能縮小
6世紀墓地としての機能停止、殉教聖人の墓の巡礼礼拝場所⇒しばしば地下バシリカにまで発展する
8世紀中ごろロンゴバルドによる破壊活動を契機に聖遺物の移転が盛んに
カタコンベは信徒の崇敬の対象であり続けた
感染に忘れ去られたのは、
1309年教皇庁がアヴィニョンに移された時
時代背景 西洋初期中世の世界 by 佐藤彰一(世界美術大全集 西洋編7)
西ローマ帝国は、国家としては西暦476年の秋に消滅した。後代の人は476年を西ローマ帝国終焉の年とみなす。
しかし800年のクリスマスのシャルルマーニュの戴冠は「レノウァティオ」(革新)という言葉で理解されていた。政治理念の上では「帝国」の連続意識があった。
それとは別に日常生活で、それ以前の時代との明らかな断絶が見られるのは、4世紀初頭である。
伝統的な寛衣
「トーガ」(ギリシア人のヒマティオン)から裁縫された「カミシア」になり、激しい動作を可能にし、裸体に対する羞恥心も生んだ。
書物の形態も巻子本(ロトルス)から冊子本(コデックス)になり、
読書を個人的な行為とし、黙読の習慣を広め、書き言葉が優勢になった。
キリスト教公認により、カトリック教会という新たな組織が根を下ろした。
4世紀から6世紀を一括りの時代として「後期古代」という名前で理解するようになってきている。
この区分では「中世初期」は7世紀から10世紀までとなる
小学館美術全集(世界美術大全集 西洋編7・西欧初期中世の美術
編集委員/辻 佐保子
1997) 月報対談、
「柱頭から見る西洋中世」
→エミール・マールの古典的著作『ロマネスクの図像学』を読む