『中国の神話・伝説』
(袁 珂著, 鈴木 博 訳– 青土社1993/4/1刊)執筆は1983年春節前夜
白川静『中国の神話 』改版 (中公文庫) 初出は1975年「
屈原の「天問」(てんもん)を熟読するうち、神話、伝説、仙話は明確に区別すべきでないこと、 古代の口承の伝説においては、それらは実際には互いに包摂しあっており、区分できないないことが分かった。(まえがきp18)
この部分を読んだ時、屈原の
「天門(てんもん)」と思いました。
それは、代表作である長編叙事詩『離騒(りそう)』に登場する神話的・象徴的な場所、 神話上の天上世界(天宮)の入り口です。
具体的には、屈原が楚の国を追放されたのち、天上世界へ旅立って天帝に訴えようとする幻想的な場面で、天帝の宮殿の門として描写されます。
理想と現実: 天門をくぐれないことは、理想(美政)が現実の世では受け入れられないことの象徴になっている。「天帝の門番(閽人)に拒まれ、天門に入ることができず、最終的に地上での孤独と悲劇を受け入れる
それに対して『天問』は、「天(空)に問う」という意味
内容は、天地創造、神話、歴史の疑問を列挙した長編詩。
戦国時代の楚の政治家にして詩人・屈原(くつげん…BC343頃~BC278頃)
問いはまず天地開闢と天象のことから始まり、鯀と禹による治水と地理のことが続き、夏・殷・周の伝説や王の事績、さらに斉の桓公や呉の闔閭に及び、最後に楚の話で終わるが、話の順序が前後している箇所も多い。時代的にもっとも新しい事件は呉の闔閭と楚の昭王の争い(柏挙の戦い)である ;天問 - Wikipedia
太古の昔、誰が道を伝えたのか。天地が形づくられる前に、誰がそれを見極めることができようか。暗闇と暗黒の中で、誰がその深淵を見極めることができようか。広大で無限の形を、誰が見分けることができようか。
明と暗、その目的とは?陰と陽が一体となる、その起源と変遷とは?円環には九つの天がある、誰が設計し、測量したのか?その功徳とは?誰が最初に創造したのか?
長いですね・・
一章概ね4句で、計96章
天問 - 维基文库,自由的图书馆
四字熟語の形172の質問「天問(ティエンウェン)」en-wikipedia
同じ屈原の九歌 - 维基文库,自由的图书馆も見ておきます・・
愁人兮柰何,願若今兮無虧。
固人命兮有當,孰離合兮可為?
ああ、なんと悲しいことか!今のまま、何も失うことなくいられたらいいのに。
人の命は決まっている。別れと再会を誰がコントロールできるだろうか?
こちらはまさに詩語ですね・・・
白川静の方、
第一章中国神話学の方法のニ(p17-27)が、『楚辞』〔天問〕篇で詳しい内容がある。
中国の神話は、もっともまとめられた形では、『楚辞』の〔天問〕篇で歌われている。
『楚辞』は、古く南方の揚子江流域に栄えた楚の祭祀的歌謡、およびその形式による巫祝
者の文学である。
(天間)は、前三世紀初に近い楚王の陵墓祠堂の壁面に、パノラマのように画きめぐらされた古代の神話に取材したものとされている。
壁画の形式は、おそらく漢代に多くみられ
たとえば山東の武梁祠堂の画像石のようなものであろう。
古代の神話よりはじめて、
山川神霊の奇異、古聖賢の物語などにも及んで
いる。
楚の地にそのような伝承が残されたのは、
楚には巫祝の俗がのちまでもさかんであって、
諸国の巫の伝承がこの地に流れこんでいたから
であろう。作者とされる屈原は、王族の一人と
して、これらの巫祝を率いていたものと思われ
る
武氏祠 - Wikipedia
「画像石」すなわち中国神話や歴史故事を描いた壁画・レリーフで知られる。
その画像石のうつし(拓本)が、図像資料として広く参照されている。
武氏祠墓群石刻 by好古齋
武氏一族は殷王武丁の末裔とされ、後漢には任城県(現在の嘉祥県)の地方豪族として知られた。
武氏祠の建造時期は、後漢末期の桓帝時期の西暦147年から霊帝時期の168年頃と推定される。
現在、武氏祠があった場所に「武氏墓群石刻博物館」が設立されている
(閲覧日20260220)
楚辞 - Wikipedia
辞 (文体) - Wikipedia
天問 - Wikipedia
子に知識が伝達される際の教理問答的な場を背景にして成立したものとするが、途中からは天への懐疑が示される その起源からして反体制的な色彩を帯びていた辞系の賦は、武帝以降の儒教支配体制の高まりに伴って衰退に向かう(白川静)
「天門
」は 、天地の生成、人類の初生、洪水説話をはじめ、神霊怪異のことや、夏股
周三代の古代王朝の物語、さらには春秋戦国の英賢のことにも及んでいるが、それら
はすべて問う形で述べられている。作者は画面の間をめぐりたたずみ、薄暮雷電のう
ちに、楚国の運命を思いながら、
「帰らんとして何をか憂ふ」と嘆く。
その神話の
意味を改めて問うことによって、巫祝者としての新しい道を求めようとしたのであろ
うが、しかし神話はこのとき、すでに壁面に描かれた画にすぎなかった。巫祝者の意識の中にも、生きつづけることのできない、滅びたる神話であった。(白川静p26)
崩壊に近い危機的な情況のなかで、楚の巫祝者たちが、みずからの存在の根拠 する神話的古伝承に対する根本的な懐疑を、哀惜の念を以てもらしたものであろう。 (白川静)