フランスの唐草
以下の冒頭は再掲であるが、ここではまず、フランス中世の歴史(&地理)をおさらいしたい。
photo byM 20190606
フランスの聖堂のこの、唐草装飾に驚きました。
11世紀献堂の フランス トゥルーズ サンセルナン聖堂
Saint-Sernin, Toulouse(コトバンク、en.wikipedia)
※旅写真《仏蘭西浪漫》
*エミール・マール: 2015k/Saint-Sernin.html
ここから、(中世の聖堂と修道院の)歴史本題に入ります。
参照テクストは、
『フランスの歴史を知るための50章』
(明石書店 2020/5/31刊) 日仏歴史学会会長 中野隆生 他著
◆地図や図像はwikipedia等も参照。
第Ⅰ部 古代・中世の 「第5章 フランス中世の教会と修道院」 と「第6章 フランスのロマネスク美術」を読みます。 (202100809)
フランク王国の時代別領土
補足: 「ヨーロッパの父」と呼ばれるのは、フランク王カール大帝(フランス語で、シャルルマーニュ(Charlemagne)(在位768-814)
カール大帝の死後、870年にメルセン条約で、フランク王国解体。ドイツ(東フランク王国)フランス(西フランク王国)イタリアの基礎ができた。
カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる(wikipedia)
Empire carolingien 768-811
カール時代のフランク王国 カール即位時のフランク王国 カールの獲得領 カールの勢力範囲 ローマ教皇領 東ローマ帝国
1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、
諸侯領(緑)、教会領(黄) (wikipedia)
補足; 11~12世紀、フランスに広大な領地を持つ二人の大領主ノルマンディー公とアンジュー伯がイギリス国王に即位した。
1066年、7代目のノルマンディー公ギヨーム2世は、イングランド王に即位した(ノルマン・コンクエストThe Norman Conquest of England、ノルマン朝成立。 1066~1154)
ノルマンディー公は、フランス王に臣従する一方で、イングランドでは王として君臨した。このイングランドとフランスの複雑な関係は、後の百年戦争の遠因となる
小野賢一著
フランス中世の教会と修道院
―11~12世紀の信仰と平安
パリとその周辺地域の教会と修道院
中世のフランスは領地の集合体にすぎず、近代の国民国家成立以降の一国史観で捉えることはできない。(p43)
補足だが, 11~12世紀のフランスの大領主アンジュー伯ノルマンディー公とがイギリス国王に即位したことが、イギリス領14世紀の不英仏百年戦争
987年カペー朝フランス王国
パリとその周辺地域にのみ直轄地を保持する弱体な王権で、教会の力を借りて王国の安定を図るほかなかった。
国王の成聖式がランス大司教座聖堂で行われたのは、教会の介在によって宗教的な聖性を帯びることなしに王権を十分に権威づけることができなかったから。
国王の崩御後、遺体はサン・ドニ修道院に埋葬された。
教会は王権の始まりと終わりにも関与した。
ランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims)(wikipedia)
サン=ドニ大聖堂( Basilique Saint-Denis)(wikipedia)
サン・ドニは王権の正統性を確立するためのイデオロギーセンターの役割も果たした。
ノートル・ダム司教座聖堂はパリの信仰と平安の象徴とされ、市民の崇敬を集めた。(p44)
ノートルダム大聖堂 (パリ)(wikipedia)
司教座聖堂(wikipedia)・・司教座(ラテン語: cathedra)(en)が置かれた聖堂
フランス北部の教会と修道院
フランス北部は、ヴァイキングとして恐れられたノルマン人が頻繁に来襲した。
ノルマン人は異教徒であったが教化され、天使ミシェル(ミカエル)
を熱烈に崇敬した。
モン・サン・ミシェル修道院は彼らの巡礼でにぎわった。
また、ランフランク
(ノルマンディのル・ベック修道院院長、カンタベリー大司教)を重用し、ル・ベック修道院は知的中心の一つとなり、その下に学統が続いた。(シャルトル司教イブ、フルーリのユーグ)
中世盛期は聖俗の対立が激化。ユーグが、聖職者の叙任権闘争解決の理論(教権と俗権の分離)を確立し、西欧世界の平安に寄与した。 (p45)
Lanfranc(1005ころ‐1089)(wikipedia)
ル・ベック修道院(Abbaye Notre-Dame du Bec)
シャルトルの聖イヴォ(Yves de Chartres、1040頃 – 1115)(wikipedia)
サン・ブノワ・シュル・ロワールに位置するフルーリ修道院(Floriacum)
フランス南西部の教会と修道院
フランス南西部では 、封建領主が群雄割拠し、紛争が絶えなかった。
名目的に領邦君主の権威を借りながら、この地域の振興と秩序を維持する役割を、修道院や司教座聖堂が果たした。主導した「神の平和」は、地域の安定を目指して行われた運動。
混乱する社会で人々は心の平安のために早急に強力な信仰の拠点の形成を希求した。強力なカリスマを持つ隠修士たちは、各地に信仰の共同体を形成。中でも、ムレのエチエンヌによって創建されたグランモン修道院は、清貧・禁欲の生活で崇敬を集め、数々の領主間の紛争を調停し、地域の信仰と平安の確立に貢献した。(p46)
グランモン修道院 https://prieure-grandmont.fr/
フランス南西部の教会と修道院
南東部も、王権が十分に及ばず不安定。
教皇権と結びつくことで困難を乗り越え発展したのが、クリュニー修道院。(黒衣)
聖ペトロ(すなわち教皇)の権威を広げるという大義名分で支院を拡大し、修道院連合体を形成。王侯貴族を含む領主階層の魂の救済のために積極的に祈祷を行ない、多くの寄進を集めた。
クリュニーの荘厳な典礼主義に対しで、修道院の内部の装飾を簡素にして、厳格に清貧・禁欲を生活の方針として打ち出したのが、1098年にモレールのロベールによってブルゴーニュ地方に創建されたシト―修道院。(白衣)
卓越した外交能力を持つベルナールが入会し、各地の宗教上の紛争を仲裁して回り、シトーの威信を高めた。
クレルヴォーのベルナルドゥス(Bernard de Clairvaux, 1090 - 1153)(wikipedia)
ベルナール1153年没後、『愛の憲章(カルタ・カリタ―ティス)』という会憲にもとづいて、清貧を維持しつつ、ブドウ栽培、牧羊、鉱山経営などの経済活動も積極的に行った。キリスト教の禁欲に倫理の中に資本主義精神の起源を見出すウェーバーの学説を敷衍するものとして、注目を集める。ワインの産地としてブルゴーニュはボルドーと双璧をなす。
Carta Caritatis(en.wikipedia)
南東部には、拡大主義をとらず、少数精鋭主義を貫き、世俗の悪弊から逃れようとした、グルノーブルのシャルトルーズ修道院もある。
修道院の逆境(宗教改革やフランス革命など)を耐え忍び、近代に至るまで宗教的な権威を失うことなく、聖界における栄達の象徴としてスタンダールの『パルムの僧院』のモデルとされた。(p47)
『パルムの僧院』(La Chartreuse de Parme)スタンダールの代表作の小説。1839年出版。 (wikipedia)
「僧院は、物語を通じ、たった一度のそれも最終ページに登場するのみで、さして重要な意味を持ってないが、それを題名にしたことがきまって読む人たちを驚かせる。」
シャルトリューズ会修道院(Chartreuse)
俗人の高揚に直面する教会と修道院
十字軍運動による人々の移動や都市の発展に伴う俗人の高揚に直面し、多くの修道院が採用した『ベネディクトの戒律』が重視する一所定住や感想的生活では台頭が不十分になり、信仰生活の新しい形態が模索された。
ベネディクトの戒律 ベネディクト会(Benedictine Order)(wikipedia)
「使徒的生活」をスローガンとしつつ、教区行政の管理を行う聖堂参事会員が共住生活を行なう信仰の拠点としての大規模な参事会教会(コレジアル)の整備が急務とされた。
カロリング期以来『アーヘン掟則』採用
『アーヘン掟則』https://core.ac.uk/download/72756417.pdf
中世盛期 律修参事会(私有財産放棄)『アウグスティヌス戒律』
プロバンスのサン・リュフ
アキテーヌからノルマンディに広がったオーレイユ
学術発展に貢献したサン・ヴィクトール
教会の統制を離れて生じた異端の蔓延
12世紀 クレルヴォーのベルナールや アルブリッセルのロベール・・個別の巡教説教
13世紀 組織的に行う托鉢修道会成立 その中のドミニコ会異端対策で活躍
13世紀に入り経済力をつけた都市の俗人は宗教コミュニティーとして第三会や兄弟団など結成、 相互扶助の精神で施しを行うようになった。
教会と修道院は、司牧(魂の救済)と慈愛(カリスタ)によって宗教的な連帯感をはぐくみ、俗人の霊的希求に応えた。(p48)
以上、「フランス(とイメージされる領域)」の中世の教会と修道院の歴史のまとめをみた。”フランス”というとどうしても、ずっとそういう「国家」があるように考えてしまいがちだった点を、明確に言語化されたというのはあるが、一方「俗人」という言葉は、今のところなじまない・・
・・という感想に始まるが、以下続く・・・
金沢百枝先生
フランスのロマネスク美術
―大いなる実験の時代
ヨーロッパで最も多くロマネスク聖堂を擁する。
多様で地域性に富む。
ロワール川のほとりのサン・ブノワ・シュル・ロワール修道院
オーベルニュの森のサン・ネクテール聖堂。峻厳。聖遺物入れともなる木彫りの聖母子像が多く作られた。
天使が舞い降りそうなル・ピュイの針山の頂に立つサン・ミシェル・デギーユ聖堂
古代の馥郁に満ちたアルルのサン・トロフィーム聖堂
ゴシックの先駆け度もされる壮大なノルマンディの二つの修道院聖堂
南西フランスの石彫りの芳醇
(p49)
※(2015)サン・ブノワ・シュル・ロワール修道院(Saint-Benoit-sur-Loire).
エミール・マールの『ロマネスクの図像学』 第1章の図版
Saint-Benoît-sur-Loire(fr.wikipedia)
サン・ネクテール聖堂(fr.wikipedia) (wikipedia)103もの壮大な柱頭を持つ、聖母子像
サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂( Église Saint-Michel d'Aiguilhe, 英: Saint Michel d'Aiguilheフランス中南部(wikipedia)
「ロマネスク」
19世紀初頭、異教古代の石造建築に倣って建てられた聖堂を、やや侮蔑的な意味を込めた「ローマ風」と揶揄した言葉
漠然とゴシック以前をさう。
20世紀初頭、アンリ・フォションの影響から、10世紀末から12世紀半ばの建築をさすようになった。
近年、その時期は様々(カロリング期を含むなど)だが、ここでは、10世紀半ばから13世紀とした。
(ロマネスク様式がヨーロッパ初の共通様式となるうえで重要なのは、各地で同時期に活発な建築活動があったという点だから。)
950年から1250年頃、北半球の気候温暖化(MWP:中世の温暖化)、
農業革命
人口増加→新しい村、新しい聖堂
余剰人口の巡礼・十字軍などの移動⇒巡礼路沿いに聖堂。 巡礼路に特徴的な聖堂の構造(周歩廊)が生まれた。
(活気に満ちた世紀)(p50)
10世紀後半:教会改革運動とも呼応
後に千以上の娘修道院を擁することになるクリュニー修道院(927年~)
修道院制の祖、聖ベネディクトゥスを祀るサン・ブノワ・シュル・ロワール修道院 院長ゴズラン 11世紀初頭 壮麗な聖堂を改築、彫刻の分野でも画期的な試み。
時同じくしてマジャール人の襲撃によって焼失したブルゴーニュ地方トゥルニュのサン・フィリベール聖堂改築
この時期 9~10世紀にかけて盛んだったサラセン人、マジャール人、ヴァイキングの侵攻が弱まり、封建制を基礎とした安定化した社会が確立
マジャ(ー)ル人、コーカソイド化した元モンゴロイド 国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族(wikipedia)
石造天井という実験
イタリア半島は木造天井
フランスでは石造天井・・火事に強いが、重みで崩落する危険
重みを分散する試み⇒トゥルニュの天井は類例がない。
(身廊の区画ごとに南北にトンネル・ヴォ―ルトをかけた。かまぼこ板のような形のトンネル・ヴォルトが横にいくつも並んでいる)
現存の聖堂のほとんどは、東西に長いヴォ―ルト。(かまぼこは縦に1本)(p51)
Abbaye_Saint-Philibert_de_Tournus(fr.wikipedia)
横方向の樽型ヴォールトと半円形のアーチ。
実験的精神は、美術、とくに彫刻にも及んだ。
ロマネスク期は、モニュメンタル彫刻の時代とも呼ばれる。
古来ローマとは異なる石彫り彫刻が誕生
聖堂の扉口周り、屋根の軒下を支える持送り、柱頭彫刻など
ポワチェのノートルダム・ラ・グランド聖堂 ・・神殿のフリーズを思わせる壁の装飾を試みた地域・・もあるが
・・・次第に彫刻は扉口周りに集中
オルネーのサン・ピエール聖堂 扉口を囲むアーチの迫石一つ一つに意匠を刻むパターンや、扉口上の半円形(タンパン)に「最後の審判図」他、複雑で発展した図像が刻まれるようになった。
Église Notre-Dame la Grande, Poitiers(en.wikipedia)
古代の則を超えて
ロマネスクにおける彫刻の復活の例として、柱頭彫刻の例を挙げる。
柱頭は原則的に古典的な様式を順守した。
古代ローマではドーリス式、イオニア式、コリント式、コンポジット式(イオニアとコリント式を混合したもの)とトスカナ式の5種の柱が主に用いられていた。
Tuscan order(en.wikipedi)
古代末期や初期中世では、神殿から採られた一本石の円柱がステータスシンボルだったが、アルプス以北では再利用品が手に入れられない地域もあり、また爆発的な建築活動は全ての聖堂に再利用品を供給できなかった。
トゥルニュ・・小さな切石を組み合わせて円柱とし、柱頭を表現場所として活用
その初期の例 サン・ブノワ・シュル・ロワール修道院の西塔(11世紀初頭)コリント式柱頭の型は確固としてあり、斜めに伸びる葉の曲線をなぞるように、「ヨハネの黙示録」のキリストはスキージャンプの選手さながら前傾姿勢をとる。
図1 ロワール大聖堂西塔柱頭彫刻(p53)
サントル地方、サン・ブノワ・シュル。(11世紀初頭)
それまで装飾でしかなかった柱頭彫刻が、教義を伝えるツールに。レパートリーは幅広く、旧約。新約聖書の物語、聖人伝、動物譚、美徳と悪徳、ギリシア神話、世俗的モティーフなど、ロマネスク聖堂では無限に展開した。
石に花開いた宇宙
聖書の物語を描いた例、ロマネスク一の美女と誉れ高いブルゴーニュ地方オータン大聖堂北扉口 楣のエヴァ
(photo byM 20190614)
図2 「誘惑するエヴァ」
ブルゴ-ニュ地方、オータン、サン・ラザール大聖堂楣断片
(1130年頃)(ロラン美術館蔵)
オータン近郊ソーリュー サンタンドロッシュ聖堂(表記ミス)の柱頭 どれもすばらしいが、「エジプト逃避」(1125-50年頃 ニコニコ笑っているようで楽しい)
この聖堂の柱頭彫刻は、ロマネスク期の円熟期。コリント式柱頭という古代の方の記憶は遥か遠く、柱頭というスペースを自由自在に利用している。
図3 「エジプト逃避」(p54)
ブルゴ-ニュ地方、ソーリュー、サンタンドッシュ聖堂柱頭(1125-50頃)
図4 「アクロバット」(p54)
ブルゴーニュ地方、ソーリュー、サンタンドッシュ聖堂柱頭(1125-1150頃)
Basilique Saint-Andocheサンタンドッシュ聖堂
※2019k/romanesque_fr2.html
動物寓意譚だからといってキリスト教的意味合いがないとは限らない。サン・ネクテール聖堂の「竪琴を奏でるロバ」
エミール・マールは、この意匠の着想源がボエティウスの『哲学の慰め』(6世紀初め)にあると解釈した。その中で哲学の擬人像は「お前は私の言葉を聞いているのか、それとも竪琴を前にしたロバなのか」と問いかける。そこでマールは、この意匠も、神の言葉へ耳を傾けるよう促す役割をもつと解釈したが、それが正解かどうかはわからない。
図5 「竪琴を奏でるロバ」(p55)
オーベルニュ地方、サン・ネクテール聖堂柱頭(12世紀)
Saint-Nectaire Église Saint-Nectaire Chapiteau
(Capitals in the aisles of Saint Nectaire)
エミール・マールの『ロマネスクの図像学』で、この話の該当箇所を見てみた。第9章のⅢ(下巻p166-168)
ファエドロスの「ロバと竪琴」
「わたしは音楽には無知だ」とロバは言った。「誰か別の者がこの竪琴を見つけたのなら、素晴らしい調べで人びとの耳を魅了するであろうものを」。
中世の芸術家たちは、直接ファエドルスからこの題材を得たのでなく、聖職者の誰もが読んでいたであろうボエティウスの有名な『哲学の慰め』の文章から着想を得たものであろう。
擬人化された「哲学」が聞き手に話しかけるが、相手が理解しているようには思えないので、厳しく問いかける。「お前はわたしの言葉を聞いているのか、それとも竪琴を前にしたロバと同じなのか」と。
13世紀の初めに教会を飾っている動物像を痛烈に非難する筆者不詳の攻撃文書が書かれ、その中で「ボエティウスの竪琴を引くロバ」も槍玉に挙げられている。
12世紀の柱頭彫刻に見られる竪琴を手にしたロバを芸術家に生み出させたのは、寓話を要約したこのギリシアの諺だった事を示すだろう。
この図像はブルゴーニュ派が影響を及ぼした地域でしばしばみられる。
扉口彫刻・・・
ヌヴェールのサン・ソヴ―ル
サン・パリ―ズ・ル・シャテル(ニエ―ヴル県)
コーヌのサン・テニャン教会
フルール・ラ・モンターニュ(ソーヌ・エ・ロアール県)
メイエ(アリエ県)
柱頭彫刻・・
ブリウド
サン・ブノア・シュル・ロアール
ナント
p167の図197
ナントのロバの楽士、旧大聖堂に由来する柱頭。
Cathédrale Saint-Pierre de Nantes(fr.wikipedia)
1874年にドブレ美術館に保管されていたナント大聖堂のロマネスク合唱団の柱頭。
石灰岩、11世紀、
立っているロバがリラを演奏し、山羊がフルートを演奏、オンドリ、イヌ、山羊がコンサートに参加
(wikimediaのキャプション)
シャルトルの古い鐘楼の南正面には今も竪琴を引くロバの彫像が見られるが、これはかって有名ない司教たちの教えを受けにシャルトルにやってきた大勢の若い聖職者たちに、熱心に学ぶべきことを思い起こさせるためのものだった、その傍らでは、日時計をもった天使が彼らに時間を教えていた。(エミール・マールp168)
photo byM 20190603
拡大してみると、たしかに日時計の天使の右に「竪琴を持つロバ」がいました。何ということなく通りすぎ、ほぼ未整理、 キャプションなしの旅写真はこちらに。)
ブルゴーニュ派というのは、美術史上の言葉でなく、(wikipedia)「ブルゴーニュ派(仏:Bourguignons)は、百年戦争期のフランスに存在した派閥」
実に、のびやかな美が中世の春、フランスに息づいていた。(p55の結語)
『フランスの歴史を知るための50章』(明石書店)のうち第6章「フランスのロマネスク美術 大いなる実験の時代」を書かせていただきました。
— @momokanazawa (@momokanazawa) May 28, 2020
オータンのエヴァも(買ってね)と囁いています。 pic.twitter.com/Q0JdZDyfZe
以上、「エリア・スタディーズ」で、中世のフランスの聖堂・修道院の歴史を見直し、必見のロマネスクの聖堂を再び探ってみました・・