波斯国///
この図像も興味深い。
さてリーグルAlois Riegl(1858-1905) は、ペルシアの唐草文様を[
独創性を欠く]と言っているが、その後の発見を見てどうなのかという事を見てみます。・・
アケメネス朝からササン朝の話に限定で後ろ方向(後世)は、まさに、としても、ずっと前方(鉄器時代)は?・・ペルシア古代・・シェークスピアの独創性って何?的なことになるかもしれない。
東洋美術の流れには三大潮流。
中国の美術、
インドの美術は縦糸、
ペルシア美術は緯糸。
「中国、インドの美術と同様に一つの潮流をなしながら、各時代ごとに平行して、東西文化の交流に重要な役割を果たしてきた。」
1958年ごろ、イラン高原でペルシア古代学の研究に画期的な考古学上の発見が起こった。
「アムラシュ遺宝」の出土である。
一つは紀元前1千年紀前半・・未知の世界・・こぶ牛はじめ各種の形象土器
一つはササン朝中国の六朝隋唐時代ないし日本の飛鳥・天平の器物と全く同じ類似する作品が多数出土
1961年、ギラーン州ルドバール地方のマーリック・テペで、鉄器時代末期の古墳を多数ハックル、金銀製容器をはじめ、多数の形象土器を発見し、イラン考古学史上に一大メルクマールを遺す。
http://www.shikokumura.or.jp/blog/archives/2より
「アムラシュ」は盗掘品の集散地であること、「遺宝」には鉄 器時代(約3千年前)からパルティア・ササン朝の文物が含まれている。 なかでも鉄器時代の形象土器は、高度な精神文化の存在をうかがわせ、「アムラシュ美術」として高く評価されている。
以下取り上げられている図像を見てみます。
Cyrus the Great figures in the Hebrew Bible (Old Testament) as the patron and deliverer of the Jews.
これだと冠はエジプトで羽はアッシリア・・という感じ・・
ペルシア人が、イランに移住してきたとき、活気にあふれた若き民であった。かれらが本質的に若く、しかも新しい芸術を作ったと考えたくなるのは、もっともなことである。ところがそうではなかった。かれらは古代オリエントの美術を取り入れた。それも紀元前一千世紀の初めごろに到達した段階においてである、彼らはこの美術がずっととってきた方向に従って、もちろんこの範囲では比類のない輝かしい成果を上げた。 しかし、これは長い、大いなる未来への芽を蔵する若い美術ではなかった。 それは古代オリエントの発展の最後に位置するものといってよい。古く全く未来のない美術なのであった。 (イラン考古学の泰斗 ヘルツフェルトの著書より)
ヘルツフェルト【Ernst Herzfeld】 1879‐1948(p64)思うにペルセポリスの彫刻は、浮き彫りにしろ、丸彫りにしろ、決して後期アルカイックのギリシア美術に劣るものではなかった。両者はいずれも人間離れのした、きびしい美しさを備えている。 けれども6世紀の終わりから、ヘラスとパールサでは、まったく異なった路を歩き始めてしまった。ヘラスでは後期アルカイックからクラッシックの美術へと、世界の美術史上屈指の偉業を成し遂げるに至たったが、パールサ(ペルセポリス)の美術はそうではなかったのである。
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