聖樹聖獣文様
エミール・マールの『ロマネスクの図像学』
第1章の図版・・・38の32番目
図32.四つの生き物に囲まれたキリスト、聖母と使徒たち、シャルリューCharlieu(ロアール県)の扉口。
「クリュニー系芸術の最も美しい記念碑の一つ、眼の前に天が開いたかのごとき壮大な構成。その装飾の優美さと人物像の洗練された繊細さとは古代ギリシアの芸術作品を思わせる」(p60)・・と、エミール・マールが大絶賛のため、途中ですが、1ページ分けます。
こちらのページのイメージ・デーティル集が素晴らしい
http://www.mesvoyagesenfrance.com/D42/charlieu.html
キリストの顔がつぶれているようだが・・・
http://www.francebalade.com/france/abbayes.htm
Photo by:
http://www.mesvoyagesenfrance.com/D42/charlieu.html
4つの生き物に囲まれた「荘厳のキリスト」の下に、二人の天使に囲まれて玉座に座す聖母、その左右に使徒たちが居並ぶ
ついでに、ここで、マールが比べている、同じく12世紀の作で同じ構図の、ラヴォデュー修道院を飾る壁画(図33)を見ておきます。・・ラヴォデュー (Lavaudieu)は、オート・ロアール県で、Wikipediaによれば人口200人台の村のようだ・・
"Abbaye de Lavaudieu - Fresque - JPG1" by Jean-Pol GRANDMONT
- 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.
「1057年、ロベール・ド・テュルランドによってラヴォデューにサンタンドレ修道院が建設された。この修道院はオーヴェルニュで唯一ロマネスク様式の回廊を維持している。美しいビザンツ様式のフレスコ画(食堂)を含む、ロマネスク様式のフレスコ画を所有する。」by(Wikipedia 2015年2月22日閲覧)
食堂のフレスコ画
ですが、マールの本のもの(p61)は顔がちゃんとあります。
玉座の母とその左右の2というのは、古代からの形ですね。キリストの方は左右の4・・
7世紀前の、上エジプトのバウイトの礼拝堂のフレスコ画に構図がこれであった。 12世紀のフランスはまだオリエントを発見したばかりであった。(p64)
33の聖母が手のひらを見せて胸のあたりに出しているのに対して、34の聖母は普通に聖母子像
バウイトを検索したが出てこない。上エジプトは図の下側。ルクソールLuxor(古名:テーベ)の遺跡群、 アスワンAswan(古名:スウェネト)、アブシンベルAbu Simbel
"Lake Nasser location". Licensed under CC BY 2.5 via Wikimedia Commons - http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lake_Nasser_location.png#mediaviewer/File:Lake_Nasser_location.png
"Nile River and delta from orbit" by Jacques Descloitres, MODIS Rapid Response Team, NASA/GSFC - http://visibleearth.nasa.gov/view_rec.php?id=4927 [1]. Licensed under パブリック・ドメイン via Wikimedia Commons - http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nile_River_and_delta_from_orbit.jpg#mediaviewer/File:Nile_River_and_delta_from_orbit.jpg
ほんとに睡蓮の花のようね。緑色のナイル流域を久しぶりに見ます。・・ 右のシナイ半島Sinai Peninsulaの聖カタリナ修道院Saint Catherine's Monasteryはキリスト教:正教会の世界最古の修道院で、砂漠の中に・・
5世紀のバウイトの件は全然ヒットしないのですが、
"Katharinenkloster Sinai BW 3" by Berthold Werner - 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.
ブルゴーニュのアンズイ・ル・デュックAnzy-le ducのタンパン:パレ・ル・モニアル美術館蔵
Musée_du_Hiéron
クリュニー修道院の書庫は、1562年の新教徒たちの略奪に始まり、1793年にはクryに―の意群衆たちが、の意残っていたすべての写本類を燃やしてしまい、(p64)ほとんど完全に破壊されてしまった。