唐草とともに
前ページでクドゥルを見てみたが、ついで、西アジア 世界美術大全集 東洋編16 (小学館 (2000/01刊)に載っているものを見てみた(クドゥッルという表記で6ケ程のっていた)
バビロン第1王朝滅亡後のバビロニアを政治的に支配した、異民族カッシート人は、メソポタミアの文化を尊重し、この地の伝統的な神々を大切にしたが、一方で社会組織や経済活動に、新しい要素を導入。
王は宮廷の高官との主従関係を堅固にしたり、
王族の力を強化するため、土地を与えてその利権を保証する策を取った。
メルシパク2世が息子たちに土地を分け与えたことを記した境界石。
碑文が一面に刻み込まれた面と反対の面には、5段にわたって一面に神々のシンボルが並べられている。
奇妙な、しかしなかなか興味深い浮彫である。by松島英子
今日いくつか残されている境界石のうちでも、最も特異な出来映えを見せている
下方に石
面を一周するように巨大な蛇が彫り出されて、それに守られるように大きな城塞がそびえている。状壁面に相当する武運には、元来は碑文が刻みつけられるはずであったが、何らかの理由によってそれは実現しなかった。
クドゥッルの最頂部にもとぐろを巻いた蛇が姿を見せているが、境界石全体が2匹の蛇に囲まれた世界を表していることは、全tくぃとして象徴的性格を持っていることを強く示唆している。
下方の蛇は2本の尖った角をつけていることから、ムシュフシュと呼ばれていたた空想上の蛇(ドラゴン)ではないかと思われる。バビロンの守護神マルドゥクのシンボルとして使われることも、また冥界の神々のシンボルになることもあった。
状打は天の神々のシンボル。下の段の図柄は他には見られないもので、解釈は容易ではない。
「英雄」と思われる人間と、動物あるいは植物・果実が交互に配されている ことから、ある種の「楽園」[理想郷]を表も考えられる。by松島英子
土地の贈与を記録しその所有権を主張するためにクドゥッル(境界石)をたてるという、カッシート時代に出現した習慣は、その後のバビロニアで長く存続した。
時の王マルドゥク・ナディン・アヘは頂部に羽飾りをぐるりとあしらった帽子を被り豪華な衣装をまとい、右手に矢、左手に弓を持っている。衣装の表面の細かな文様が線刻で表現されているが、この文様は実際には刺繍か、あるいはアップリケの手法で施されたものと考えられる。by松島英子
単語 'kudurru'は境界石を意味するアッカド語の用語です。しかし、この名前が示唆するものに反して、kudurrusは寺院に保存されているという事実であった。
ユニークな行列
(中段の動物を伴い楽器リュートを演奏する神の行列)
While it was usual for kudurrus to be carved with a succession of divine symbols, in this case the carvings on the middle register are most unusual. They depict a procession of eight figures, all carrying bows and wearing the horned crowns that mark them out as gods. Seven of the figures are bearded gods, playing the lute and accompanied by animals.
漢字では、蛇の字は、王冠を被るヘビの象形 (白川静)
このムシュフシュのは角であるという・・しかし、神の像には、みな角のがあったともいう こと・・などなど思い馳せる
バビロン第1王朝を滅亡させたのは前1595年に突然アナトリアからやってきたヒッタイト人。
その後バビロニアを支配したのは産学地から徐々に浸透していたカッシート人。
(少数派)
バビロニアの生活様式を受け入れ、バビロニア文化を尊重しその保護に努めた。
カッシート時代の典型的美術品は、「クドゥッル」と呼ばれる境界石。すなわち土地の境界を示すための石碑。通常30センチから1メートルほどの、頂部がおおよそ卵型になった細長い石碑
一般に表の面に、王から神殿、高官あるいは個人に土地が贈られたことを記し、、
土地の所有権を侵害すれば神の呪いを受けるであろうと厳しく戒める長文の銘がきざまれている。
碑面の残りの部分あるいは裏側にはしばしば浮彫がほどこされている。
現存の最古は前14世紀初めの作と思われる粘土製のものだが、図柄は描かれていない。
今日目にする浮彫のあるものは多くがスーサから出土しており、メリシパク2世とその後継者の時代、すなわちカッシート王朝末に製作されたものである。
浮彫そのものの出来栄えは、特段に優れているわけではない。しかしここにはメソポタミアの美術における一つの重要な局面、すなわち「図像」の成立、あるいは定着という現象が見られる。(by松島英子)
この辺り非常に参考になった。のみならずワクワクした。さすが、「アッシリア学の第一人者」・・。ご著書へのリンクを右に出します。
クドゥッルには神のシンボルが浮き彫りされる。ある神についてのある形態のシンボルが定着しその神の姿を代行する。
神の姿を直接浮彫などに表すことが避けられるようになったのであるとするならば、宗教観の大きな転換期がこの時期にあったことの現れではなかろうか。
バビロン市神マルドゥクがバビロニアの神々の王の地位を獲得し、彼を中心とする限られた数の神々に権力が集中するようになるのは、カッシートに続いて起こった王朝の時代。それと前後して、神々の存在は人間から遠ざかり、人間には理解不可能な存在となっていった。
いいかえれば宗教的に洗練されていくわけだが、その傾向はおそらくカッシート王朝の末ごろから始まっていたことなのであろう。
クドゥッルを立てる風習はカッシート時代のバビロニアにはじまり、エラム地方にも広まったが、バビロニア地方ではこの後も長く存続した。
カッシート時代は様々な観点において、重要な時代であった。(by松島英子)
壁面の浮彫レンガ装飾はこの時代に芽生えたもう一つの美術分野で、これもまた後世バビロニアに定着することになる。
最古のものはカラインダシュ王(前15世紀末または前14世紀初頭)のときにつくられた、ウルクのイナンナ神殿の入口のレンガ
次の前1千年紀に盛んに建築装飾として用いられた彩釉レンガ浮彫りの着想は,実際のところここに始まっている。(by松島英子)
クドゥッルの彫刻では、神々はほとんどの場合シンボルでしか表現されなかった。だが円筒印章では大きな姿を現した。
カッシート王朝がエラム人の来襲によって倒れると、バビロニアの支配権はイシン第2王朝(前1157~前1026)に受けつかれ、その後は資料の空白期に入る。 (西からアラム人が流入、南部にカルディア人が定住。)しかし、イシン第2王朝の美術作品として現存するクドゥッルの浮き彫りにカッシートのクドゥッルの様式が踏襲されている。(byくがゆきこ)
上部、猿の顔に見えるが猿の彫刻遺物が残っていることがWikipediaでわかる。
そういえば、ペルシアの王が猿をペットにしている映画のシーンがよくあったと思う。
Figure of a monkey, found at Kar Tikulti Ninurta; British Museum
前13世紀後半 トゥクルティ・ニヌルタ1世の祭壇 イラク アッシュル出土 高103センチ
シャマシュに礼拝しようとしている
王の左右にに立つ精霊らしきものが持つポールの頂部のシンボルで象徴的に表現されているにすぎない。
※トルコのイスタンブール考古博物館蔵展示の様子のわかるblog
https://hulule-hulule-voyage.blogspot.jp/・・
神の象徴・侍獣をもう一度 ⇒バビロンの図像:主神と蛇