唐草図鑑
オリエントの図像

古代メソポタミアの「棒と輪」

聖なるものさしと巻き尺(説)

meそれは聖なるものさしと巻き尺であるという説で、いままで 「身体尺について」の方面からみていました(※)が、
天女の持つリボンのついた輪は何だろうかなどとも思いつつ・・そのままでした。 
ここに新しく、前田和也編著[図説メソポタミア文明](河出書房新社フクロウの本2011年12月刊)に、「棒と輪」探索の旅(p81~93)という考があり・・お付き合いしたいと考える・・
その前の少々おさらいを・・・・

ものさしというものは、神聖なものだという。
ものさしというのは、元は「身体尺」で、 その人の身体のサイズによってまちまちであった。その規格を統一するのが王の神聖なる権限であった、という。
一説によれば、 メソポタミアの王権の象徴はものさしであり、王は神から神殿を建設してもよいという許可を与えられた証拠として、神から直尺と巻尺を手渡しされている浮彫(がメソポタミアの各地でみつかっているという。

(身体尺についてに書いていたこと)


Taq-e Bostanの天女とフラヴァルナー →昨年少々見たこと  ササン朝ペルシアの美術イランのxvarnah


「正義の維持者」としての王

中田一郎さん『メソポタミア文明入門)

前田徹氏:ウル第三王朝時代から、
「正義」(社会正義)を維持することが王の重要な責務に ⇒初めて、法典 編纂
最古の法典:ウルナンム法典(在位前2112~前2095)
最も有名な法典:ハンムラビ法典・・戦利品として、運ばれ敵国、エラム王国のスーサ遺跡から発見された

(『メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観』前田 徹著)

p90
都市国家時代・・王の二大責務は、外からの攻撃に対する防衛と、支配領域内の豊穣と平安を確たるものにすること
神の住まいたる神殿とそれを守る城壁を作ること。〔神殿建立の碑文が多い〕
シュメール王権の一つの到達点である統一国家確立期(ウル第三王朝時代)の王は、社会正義の擁護者
人間社会の存在を自覚したことで、前の時代より一歩前進した時期


ハムラビ法典

Code of Hammurabi(ルーブル美術館蔵)fr.wikipedia.org
紀元前1760年頃 玄武岩 高さ238cm

ページ上に掲げた棒と輪」の手渡し図のある浮き彫りの全体

https://en.wikipedia.org/wiki/Naqsh-e_Rustam The founder of the Sassanid Empire is seen being handed the ring of kingship by Ahura Mazda .
Wikipediaの記述は・・

(アフラマズダ神からキングシップの輪(「リボンを付けた王冠」cydaris)を 手渡されているイランのサーサーン朝の最初の王アルダシール一世。
パルティア王Artabanusを馬に乗って踏みつけている


meこのように、棒と輪、それは、王権の象徴の、「王杖と王冠」であると言っておけば、いわば「わかりきったこと」で、楽でしょうが、 もう少しさかのぼることにしたい  ・・・ 

「棒と輪」探索


「棒と輪」図像とウル・ナンマ王碑浮彫
図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史) 』前川和也編著p83より引用 (現存最古、とのこと)

meこの図はペンシルバニア大学博物館(Wikipedia)蔵という・・。 高さ3メートルの巨大なものであるそうだ。
「天使」(最上段)はメソポタミアの図像では極めて稀、とある。

ウル第3王朝の創始者ウル・ナンマ王(在位前2112=2095)の浮き彫り
「問題解決のために最も重要な図像」 という(p82)
ウルの主神ナンナが、「棒と輪」に似た物品を
ウル・ナンマ王(Wikipedia表記はウル・ナンムUr Nammu)に 提示している。


p84 図6 A.Moortgat Art of Ancient Mesopotamia (1969)Bettmann

 問題の「輪」はいくつか数の小「輪」の集まりであるように見える。
「輪」がいくつかの個所で束ね固定されているからである。
更に「棒」の背後で細縄が垂れている

残念ながら私には判別できない。

現在よく行われているのは、ナンナ神が握る物品を測量道具とする説明である。1920年代前半にウルでこの碑が発見されると、ただちに発掘責任者ウ―リー(※)は神が右手で王に示しているのは竿と縄という測量道具セットだと解釈した

※レナード・ウーリー卿Sir Charles Leonard Woolley(1880-1960)
ウルの発掘 Wikipedia

彼によれば、輪状の部品と垂れ下がっている細縄は実は一体である。一本の縄がコイル状に巻かれ、その一部が垂れているという。

第三、四段は王の建設活動を描いているのだから、第二段では神が王に神殿建設を命じ、測量道具を与えている場面だとしたのである

これは、その後多くの研究者によって受けいられ、現在まで最有力説として生き続けている

後の「棒と輪」図像に神殿造営が描かれることはない。
測量道具としての「竿と縄」が王権の象徴とされるようになる理由を説明しなければならない

最近では、竿や縄で「直線」を図ることを意味するシュメール語が。「正す」。「正義」をも支持していて、今点でウル・ナンマ王碑浮彫とハンムラビ法典碑とがつながっているという解釈が提出された。

前川さんの考察では

ウル・ナンマ王碑浮彫に描かれているのは「棒、輪と(細)縄 の三点
縄が脱落したが、 ハンムラビ法典碑の「棒と輪」と同じ。測量用具ではない。神殿建設が描かれていても、神による神殿建設の命令の場面とみなす根拠にはならない。前三千年期末までのメソポタミアのパネルは下段から上段へ読んでいくのが大原則



「図説世界文化地理大百科 古代メソポタミア」マイケル・ローフ著 松谷敏雄監訳(朝倉書店)にある図 はこんなである



更に、上記 Wikipediaの図 Stela of Ur-Nammu



『図説メソポタミア文明』前川和也編著p83より引用
図4.イエンナ神殿行政官ルガル・エンガルドゥの円筒印章印影
厳密な意味での「棒と輪」図像の最古例、という。(p82)

印章はウル第三王朝3代王(※)によって下賜されたイエンナ女神の描写法に善大悪化時美術の特徴が残っている。ニップル出土 Zettler、JNES46(1986)

中央の生命樹(?)の鉢への王の水やり(灌水)灌天の儀
アマル・スエン(在位前2046~前2038)

現代の模写ではハンムラビ法典碑浮彫の「輪」は単なるりングとして描かれるが、一定幅で「刻み」が彫り込まれている。(p85)

以下は納得しかねる個所

ウル・ナンマ王碑では「輪」は おそらく数本の小枝が撚りあわされて出来ていて、いくつかの箇所で紐あるいは細枝で束ねられている。そのような、束ねるための細枝が、ハンムラビ法典碑などの「輪」では「刻み目」として表現されるようになったのであろう。 (p85)


『図説メソポタミア文明』前川和也編著p85より引用
アッシュル 王宮壁画フリーズ 前1千年紀
W.Andrae,Coloured Ceramiics from Assur and Earlier Ancient Assyrian Wall-Paintings(1925)PL.10.ベルリン博物館蔵
神は刻み目のある「輪」をもつ(立っている)

me身体尺関連説としては、王の肘が描かれてあることにも注目したいように思うが、我田引水であろうか・・

もうひとつ、これは連珠ということも考えられないだろうか?→より引用、「サーサーン朝の連珠文はしかるべき意味(フヴァルナー)をもつものであったが、しかし装飾の典型とはしなかったようである。 (続く・・連珠文、メダイヨン)


「棒と輪(と縄)」の提示―戦場から屋内へ

 
マリ王宮中庭106南面の壁画 前18世紀

『図説メソポタミア文明』前川和也編著p82より引用
図2研究者はこれを「叙任/叙勲儀礼(インヴェステテュル)図像と呼んでいる。
ハンムラビ王が壊したものという
ライオンを踏み、立っているイシュタル女神

me 古代女神の図像はたすき文様で判別できるようだ?(古ヨーロッパの神々M.ギンブタス1998 参照)
左の女性の身ぶりはエジプトでは尊敬を表す意味であった([エジプト神話の図像学 ] Christiane Desroches Noblecourt 2001 )王の右手もそれであろうか・・



『図説メソポタミア文明』前川和也編著p86より引用
エシュエンナ(テル・アスマル)はシカゴ隊によって発掘された。前3千年紀末
H.Frankfort et.al.,Gimilsin Temple and the Palace of the Rulers at Tell Asmar(1945)


「棒と輪(と縄)」の提示の儀礼化


「輪」の起源

「棒」は杭か



図10 アヌバニニ(Anubanini王) 磨崖浮彫
J.N.Postgate and M.Roaf,The Shaikan relief,AL-Rafidan (1997)


「図説世界文化地理大百科 古代メソポタミア」マイケル・ローフ著 松谷敏雄監訳(朝倉書店)を参照してみましたが、 なし。

me肝心の部分が私には見えないんだがまた別の素描も載っている

me以上、ディヤ(ー)ラ(ー)(Diyala)川での検索で、図を確認できたもの。

◎◎引用先https://www.livius.org/
Drawing of the relief of Anubanini of Lullubi.
Lullubi kingdom, c.2400–c.650 BC
ルルビ人(Lullubi)アヌバニニ Anubanini (c. 2350 BC)
he ordered to make an inscription on the rock near Sar-e Pol-e Zahab  アケメネス朝以前のイランの王 https://wpedia.goo.ne.jp/enwiki/ ルルビ人=フリル人?(旧説)

、「ペルシア美術史 」(深井 晋司・ 田辺 勝美 著、吉川弘文館 (1983/01) 刊)のp10 に、この図があり、以前見ていました

meここで、 前川和也編著 「図説メソポタミア文明」 p89 図13~図17
前川さんは、神が掲示している「輪」は。複数の戦争捕虜をつないだ複数の細縄を杭につなぎとめるための物品を表彰している」とされ、関連図を挙げておられる。



鼻輪でつながれた牛はともかく、 鼻輪でつながれた捕虜の図には改めて驚いた
しかし、輪に一定の幅で刻み目をつけれれるということに関して、その必要性が私にはなおよくわからないdのであった・・


文献テキストの中の「棒と輪」

前2千年紀初めに書かれたシュメール語文学テキスト 

me


「鼻縄」から(木製の)輪」へ

前川さんの仮説:(p91)

戦争捕虜を役畜のように鼻縄で引く技法、鼻縄を杭につなぐために用いる輪を征服地統治の機能の象徴とみなすす考えは、アッカド人によって南部メソポタミアにもたらされた

羊飼いの杖、あるいは牛飼の突棒?

現代のシュメール・アッカド語辞典では、しばしば「(牧人の)杖」と訳される。
「棒」が羊飼いの杖、あるいは牛飼いの突き棒を指示する名r、「「輪」の起源を牛縄を杭、ポールにつなぐための用具だとする説とさほど矛盾しない

ただ粘土板テキストで確認することはできない。

「門ポール」「祭儀ポール」図像

(p92)

かって古バビロニア時代の「棒と輪」図像にはニタイプたあると主張されたことがある。第一のタイプは厳密な意味での「棒と輪」図像。そこでは「棒」と完全な円形をなす「輪」のニ点を神が王に提示している。
第二のタイプは上部にD文字状の突起をもつポールを神が提示している図。第二タイプではポールとD 状突起は一体である。

第二のタイプは、前四千年紀末から前三千年紀にかけての図像で、 メソポタミア図像学で「門ポスト」「柱シンボル」「祭儀シンボル」と呼ばれる

meウルクの大杯にもあるイエンナのシンボル→

シュメール起源の「棒」

図像と文字表現の完成━叙任儀礼の成立

諸民族を征服したアッカド王朝の時代に、初めて「輪」が図像に現れる。もともとは牛をつないだ縄を苦に留めるための縄そ、征服したい民族党チンシンボルとして、神が王に提示し時始める。
書記の巣像で戦闘の神イエンナが「輪」を握っていることが多いのが示唆的である。

前21世紀に、神による王への提示物に「棒」が加えられる。もともとこの「棒」は神殿の門に立てかけられ、あるいは「気象」ポールとして後進の際に用いられるのであり、武器でも牧人の杖や突き棒でもない。神殿守護の王への委託を表象しているという解釈


前二千年紀にはいって、王碑文以外の文献テキストとりわけ王讃歌において「輪」が新サインを用いて表現されるようになり、しかも「棒」とペアを構成し始める。図像「棒と輪の文字表現が完成した。
すでに前21世紀の図像で、屋内で神が「輪」と共に「棒」をも提示していた。 この組み合わせは、王讃歌の中で生まれた。 「棒と輪」提示の儀礼の際に実際に歌われたのである。


me「棒」の方も牧人の杖とされるのかと思っていましたら、神殿守護を表象するもの(ポール)とされていた・・
「輪」の方の起源説も非常に面白くじっくり一つ一つみてみたのだが・・ どうなのだろうか。・・・こちらも更に、おいて、見てみたいと思う・・・
「棒と輪」で 王権の守護者としての王の二つの役割を示している、とみてよいということは確かだと考える。
図形としては、直線と円である・・そしてその長い歴史・・
杖一般については、こちらにも


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