唐草図鑑

農耕の初め

常木晃『食糧生産社会の考古学』

食糧生産社会の考古学 「現代の考古学」岩崎卓也編集代表
3「食糧生産社会の考古学」常木晃編( 朝倉書店 1999/12)

https://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-53533-4/

序章  0. 序章 農耕誕生
0.1 植物栽培と農耕
0.2 最初の農耕起源論:近接モデル オアシス仮説/核地帯仮説
0.3 狩猟採集民の復権とストレスモデル 人口圧仮説
0.4 多様化する農耕起源論 進化論モデル/社会要因モデル

植物栽培と農耕

狩猟採集民が意識的にせよ無意識的にせよ、植物に働きかけ、その遺伝的形質を変化させた[栽培した]例は多い

人類は500万年前(形質人類学・分子生物学などから)、東アフリカの大地溝帯で誕生したと考えられている

人類と地球に大変化をもたらした原点としての食糧生産社会の始まりを考察する(食糧獲得者⇒食糧生産者)
区分は曖昧だが人類がそれまでと異なる存在となったことは事実
食糧生産社会から、都市社会、宗教、文字、国家、工業化社会が生まれた、人類大転換の原点
農耕誕生についての研究状況の再確認

農耕誕生 P1~21要旨

現在の考古学知見では農耕という食糧生産を基盤とした社会の歴史は、1万年前に、アジア大陸の西と東の片隅より始まったと考えられている。

人類は500万年前(形質人類学・分子生物学などから)、東アフリカの大地溝帯で誕生したと考えられている

植物栽培の3段階 リンドスの分類
「付随的栽培」(incidental domestication)・・人類誕生以前から存在する
「専門的栽培」(specialized domestication)・・晩氷期から本格化した人間の定住性の高まりとともに出現
(例・縄文時代のクリ) 「農耕的栽培」(agricultural domestication)・・伝播でなく、7つの地域でそれぞれ独自に発生したと考えられている

 
農耕が開始された最古の推定年代とその地域で家畜栽培化された主な動植物

P4図 (Smith,B.D The Emergence of Agricultural 1995)

古植物的な議論が先行している。
古くから関心が集中してきた西アジア以外、考古学的証拠を提出できる地域はほとんどない


近接モデル


最古の農耕起源論


ギリシア人地理学者パウサニアス

人類の社会の変節点:食糧生産社会の始まり

18世紀:啓蒙運動(社会契約説論者)ルソー『人間不平等起原論』

野生の状態→食糧生産開始後の社会の状態。経済的余剰、資産、人口の増大

19世紀:近代的な文化人類学や考古学の成立
モルガン

野蛮、未開、文明と順を追って進化する(野蛮と未開の区分は、食糧生産の有無)

植物 栽培開始の条件:植物学者ドゥカンドル

野生種の存在
気候が温暖で十分な日照を得られ、人間が定住し、
狩猟・採集、漁労による資源がそこの人間社会にとって不十分であること

オアシス仮説

20世紀
チャイルドのオアシス仮説(oasis theory)

チャイルドの功績:それまで主要利器に基づいて技術史的に区分されていた考古学上の人類史を、社会経済的視点からとらえ直したこと
人類史の大きな変節点: 新石器革命(農耕の始まり)、都市革命(都市の始まり)、産業革命(工業社会の始まり)

トルクメニスタンのアナウ遺跡を調査していたパンベリーからのアイディアとブルックスの「気候の変化」からの古気候的アイディアから
怖れまでの冷涼で湿潤な気候が、高温で乾燥した気候に取って代わられた結果、河川やオアシスといった水場近くに集まることを強いられた

トインビーらの歴史学者にも大きな影響を持ち、20世紀半ばまで、農耕起源を説明するほとんど唯一の学説であった

核地帯仮説

ブレイドウッドらによるイラク・ジャルモ・プロジェクト・・農耕の始まりを実際の遺跡発掘調査を通じて解明しようとするもの

核地帯・・後に栽培家畜化されうる動植物が自然に生息している地域


両説は、共に人間と植物が近接して生存するなかで農耕が始まったと述べている→あわせて、「近接モデル」と呼ぶ

狩猟採集民の復権とストレスモデル

農耕民側のエスノセントリズム・・いつも飢えにさいなまれ、欠乏する食糧を探しまさっている人々知う像は、現代狩猟採集民研究によって大きな変更を余儀なくされた
アボリジニーの平均労働時間は4~5時間で、十分な栄養摂取量を得ていた
なぜ人々は豊かな狩猟採集生活をやめて、大変な労働強化を伴う農耕を始めたのか

人工圧仮説

ニュー・アーケオロジー ルイス・ビンフォード

人口密度の上限に達した河川流域や沿岸部から、周辺部へ定期的に人口が排出されるようになった。人口と資源のアンバランスにより、農耕・牧畜が始まった・・検証作業は行っていない

フラナリーの検証

農耕とは、最適地域と同じ自然環境を人工的に作り出す仕組みであると考えた
マージナリティ・セオリー(辺境域仮説)とも呼ばれる

ストレスモデル・・人工圧仮説に限らず、農耕の始まりには、気候の悪化や資源の減少、社会的圧力の増大といった、それまでの人間社会を維持できなくなるような負の原因であったと考える議論

多様化する農耕起源論

進化論モデル


ネオ・ダーウィニズム ヒッグス、ジャーマン (ケンブリッジ大学)

農耕の始まりを人類史の一代変換点ととらえず、長い共生関係の一つの選択肢にすぎないとする
進化論の立場に立つ 生態学的研究

進化論の立場から再考する、リンドス、ハリスとヒルマン

継続的に熟する直前のアインコルン小麦を刈りつづけ、そのうち4分の1程度の種子を翌年播き続ければ、小麦は数10年で栽培種となる。穀物収穫法と食習慣の相違
植物栽培化を引き起こすプロセスの理解

社会要因モデル

ヘイデンに代表される、祝宴競争仮説・・(大方の考古学者は支持していない)

特権的ないしは不足しやすい植物を対象に栽培が試みられ、農耕が発生する

農耕起源についての一般モデルの構築は不可能である



p14 図2

コンセンサスの形成

現在大方の支持を得ている農耕起源論

西アジアで農耕が人間社会の生業基盤として確立したのは、先土器新石器時代B期の半ば  (紀元前7000年前後)
植物栽培の取り組み農耕の開始は先土器新石器時代A期の始まり頃(紀元前8300年前後)
その候補地はヨルダン川渓谷からユーフラテス河中流地域にかけて長くのびるレヴァント回廊(Levantine Corridor)
先土器新石器時代A期直前の更新世終末から温帯性常緑広葉樹林の拡大に伴い、ナトゥ―フ文化と呼ばれる定住的で複合的な狩猟採集民文化が繁栄
多様な資源を利用する広範囲生業が行われていたが、その一部として、後に栽培されるエンメル小麦や大麦といった穀類利用の伝統が育まれていた

後半は域内人口密度が高まって資源ストレスに直面する状況にあったと考えられる。
紀元前9000年ごろから数100年にわたって続いたと考えられるヤンガー・ドリアスと呼ばれる一時的な寒の戻りが、ストレスを更に高めた。
koのストレスに対応する手段として農耕が始められた。(考古学的・古環境学的証拠にも土づいたもの)

世界各地の一次的農耕起源地の共通点
農耕開始以前から植物利用は重要な生業であった
農耕は豊かな資源に囲まれたより複合的な狩猟採集民社会の中から出現した
(定住生活の始まりと同時)
専門的栽培から農耕へと転化した主要植物は、主として種子植物であった
中でも穀物と豆類が重要な栽培植物となった(栄養的、嗜好的、貯蔵性、生産性において、最も人類と相性が良かったため)


p17 図3
Renfrew,C.ando P.Bahn:ArchaeologyーTheories,Methods and Pradtice.1991

ナトゥ―フ後期層ではすべての植物が野生種
先土器新石器時代B期層では穀類と豆類で全体の80%
前者では百数十種に及ぶ植物種子が検出されているのに対し、後者では十数種類となっている
農耕とは多様な植物利用をやめていくつかの限定された植物に依存するモノカルチャー化した生活の始まり
生産の偏り、 ハイリスク・ハイリターン生活への転換

 

me大変面白く読んだ。
生物多様性、・・というが、ニンゲントハ、スナワチ、モノカルチャー化の道を行く生物なのであったのか・・


終章(p238~350のまとめでの藤井 純夫さんの論についての部分

レヴァントの麦作農耕の始まりについて

体系的な麦利用開始の最も古い証拠が得られている
麦作農耕の始まりと密接に関係する後氷期の自然環境変化が最も早く起こっていることが花粉分析などから復元できる

西アジアの麦作農耕は、ヨルダン川渓谷においてPPNA後期スルタン期(紀元前8000~前7300年)、低湿地園耕に始まった

ヨルダン渓谷での微視的な遺跡分布と出土遺物を検討し、
麦利用を主目的とする春・夏季の季節的キャンプから始まったとする
低湿地園耕と丘陵部粗放天水農耕を対比的に捉えての土地利用の視点からのぎろん

(常木・・旧石器時代後終末の冬季キャンプがナトゥ―フ期の定住集落を生み出し、基本的にはそれが大型化し初期農耕集落が成立したと考えてきた)


→藤井純夫さんの本『ムギとヒツジの考古学』 (世界の考古学) はまたのちほど(こちらのページで)追記したい

用語解説から

先土器新石器・・ 農耕がおこなわれていて、かつ土器が出現する以前の新石器時代・文化
イェリコの発掘調査で最初に命名され、おもに西アジアのレヴァント地域で用いられる
紀元前8300~前6000年頃までの2000年間
大きくは2つに分け、
A 期麦作農耕が始まり、 B 期ヤギ、羊の放牧が始まった(Pre-Pottery Neolithic B)

ナトゥ―フ文化(Natufian)・・更新世直後の東地中海沿岸レヴァント地域におこった最初の定住社会を有する文化
考古学的には続旧石器時代末期に当たりm紀元前10500年~前8300年頃までの2000年
三日月形の細石器(lunate)が指標遺物である
ガゼルの集中的狩猟や野生ムギの収集などによって、バンド組織レヴェルの(つまり、人口数十人程度の)(半)定住的集落が営まれた。

ヤンガー・ドリアス(Younger Dryas)・・氷河期終末から温暖湿潤化が一時的に急激に冷涼乾燥化する揺り戻し時期のこと
未補正の絶対年代で紀元前9000~前8300年頃までの数百年間がこの時期に当たると想定されている
半世界的な現象と考えられつつある。
西アジアではナトゥ―フ文化後期からPPNA初頭にかけての時期に相当し、その意味で、麦作農耕の起源にも大きなかかわりを持っている

ヒプシサーマル・・ヤンガー・ドリアス期からのリバウンドともいえる、完新世で最も高温であった時期のこと。
Mesopotamia編年で言うと、ウバイド文化の後半から初期王朝期にかけての約2000年間がこれに相当する。 

me中国の土器の文様関係用語をついでにピックアップしておきます

印文陶・・新石器時代の晩期から漢代にかけて、中国大陸東南部に広く普及湯した土器。叩き具やスタンプによって施紋された連続する幾何学紋様、叩きによる成形技法を特徴とする

縄蓆紋(じょうせきもん)・・日本の縄文時代の縄文の様な原体が転がって施される文様は異なり、叩きによって土器を製作する際に施される文様。すなわち叩き具に巻き付けれれた縄目が土器の表面にのこるものである

補足(WEB検索)

テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra)Wikipedia

古代のレバント東部・メソポタミア西部にあった考古遺跡。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっている。

採集されていた野生植物には、二種類の野生のライムギ、アインコーン(einkorn、一粒系コムギの一種・ヒトツブコムギ)、エンメル麦(Emmer、二粒系コムギの一種)、ヒユ、その他レンズマメやピスタチオなど野生の子実類があった。

Cultivation in general is encouraging the growth of something. It may refer to: Plant cultivation, that is, horticulture

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