唐草の文化史
「オリエント」とは
オリエントの文様を見ていますが、以下に「オリエント」の復習をしておきます
オリエント Orient
原語は
ラテン語の oriens〈昇る (こと) 〉で,もともと〈日出づるところ〉〈東方〉という方位を指示する語であった。したがって,
ローマ時代には帝国内の東部にたいしても適用され,もちろん帝国外の東方を指す場合にももちいられた。オリエントと対になる語は
オクシデントOccident (ラテン語 occidens〈日没するところ〉〈西方〉) であるが,西ヨーロッパの人々がみずからをオクシデントと称し,オリエントを異質の文化をもった東方世界として対置させるようになるのは,
ローマ帝国が東西に分裂し,西ヨーロッパが自己の世界を形成していく過程と深くかかわっていた。その場合のオリエントはまず
ビザンティン帝国であり,次いで
イスラム世界を意味した。その後,ヨーロッパ人の地理的知識の拡大とともに,オリエントの範囲はさらにひろがり,インドから中国,日本まで含まれるにいたった。現在,オリエントは
広義において〈近東〉〈中東〉〈極東〉の総称として使用されているが,
狭義において最古の文明地域の呼称として,すなわち〈
古代オリエント〉の意味においてもちいられることも少なくない。
日本において歴史用語として〈オリエント〉が初めて現れるのは, 1943 年に文部省が発表した中学校 (旧制) および高等女学校の〈教科教授及修練指導要目 (案) 〉においてである。ここでは〈地中海文化ノ形成〉の第 1 項として〈オリエント〉が挙げられており,したがって古代オリエントが取りあつかわれることになっている。しかし,その当時から,古代オリエントの地域,今日では〈中近東〉とか〈中東〉と呼ばれている地域が古代から現代にいたるまで一つの完結した歴史的世界を形成してきたという認識にもとづいて,この歴史的世界を〈オリエント〉と名づける主張が提起されていた。それは同時に,明治以来の東アジア史を主体とした東洋史と西ヨーロッパ史を中心とした西洋史の 2 分野の枠組みを依然として維持しつづけてきた日本の外国史研究のあり方にたいする批判を含んでいた。戦後,この主張にもとづいて,古代オリエントのみならずイスラム学の研究者を包括する学術団体として, 54 年に日本オリエント学会が創立されている。 ⇒中東
佐藤 進(平凡社世界大百科事典)
東洋
西洋の反対が「東洋」で、東洋の訳がオリエントで、対語の世界 …
単純な言葉が恐ろしい !!と以前書いた。「明治以来の東アジア史を主体とした東洋史と西ヨーロッパ史を中心とした西洋史の 2 分野の枠組み」というのは確かに強固にあったと思う。以下のような具合
ORIENTATION
orientate [:rienteit] ━━ vt. =orient.
o・ri・en・ta・tion n. 東に向けること;
【建】聖壇を東向きにすること; 方位(測定); 態度是正;
【心】見当識(けんとうしき); (新環境への)順応, 適化;
【教育】オリエンテーション;
【生物】定位; 方針. (exceed英和辞典より)
o・ri・ent [:rint]
━━ n. (the O-) 東洋; 極東; 〔詩〕 (the ~) 東;
(東洋原産の)上等真珠(の光沢).
━━ [-ent] v. 東に向ける; (教会を)聖壇が東に来るように建てる;
正しい方位に置く; 位置[方位]を定める;
(環境などに)順応[適応]する[させる]; …の興味を向ける ((to, toward(s))).
・orient oneself 自分の態度を定める.
━━ a. 〔詩〕 東の; (日が)昇る; (宝石が)光沢の美しい.
o・ri・ent
━━ n. (the O-) 東洋; 極東;
…というのはいろいろ混同させたまま。
とにかく、私は、オリエントを「古代文明を表す言葉」として知っていたが、同時に、東洋すなわち「日本を含む概念」だと思っていた
東方問題 Eastern Question
東方問題とはという表現における〈東方〉とは,ヨーロッパ世界からみた〈東方〉を意味し,そこにはヨーロッパ人の視点と立場が色濃く投影されている。それは広義には
古代ギリシアとアケメネス朝ペルシアの関係,
中世ヨーロッパのキリスト教諸国とイスラム諸国の対立などがひきおこした事件を指すことも多い。
たとえば,ドリオ⊇duard Driaultの《東方問題――その発端から 1920 年セーブル条約まで La question d ’ Orient depuis ses origines jusqu ’ a la Paix de S≡vres1920 》 (1921) では,第 1 章が〈ビザンティンとイスタンブール〉と題して,ビザンティン帝国の衰亡とオスマン帝国の興隆の叙述から東方問題を説きおこしている。
しかし,歴史上普通に用いられる東方問題は, 18 世紀末から 19 世紀にかけて生じたオスマン帝国の衰退と内部分裂の危機を利用したイギリス,フランス,ロシア,オーストリア (のちにはドイツ,イタリア,アメリカも参加) などの
ヨーロッパ諸列強の中東,東南ヨーロッパ (バルカン半島) への進出と介入によって発生する一連の国際紛争を指すヨーロッパ側の名称である。換言すれば,東方問題はヨーロッパ諸国がオスマン帝国内部に影響力を及ぼそうとしたときに,帝国の領土と民族の問題をめぐって引きおこされたヨーロッパ諸国間の競争,対立,抗争あるいは協調,同盟のような諸局面を意味している。それは国際関係史の上でヨーロッパ諸列強間の外交問題となる一連の事件の総称でもある。
たとえば,キュチュク・カイナルジャ条約 (1774),ナポレオンのエジプト侵入 (1798),ギリシア解放戦争 (1821 以降),エジプトのムハンマド・アリーによるシリアとアナトリアをめぐる 2 次にわたる対オスマン帝国戦争 (1832‐40), クリミア戦争 (1853‐56),露土戦争とサン・ステファノ条約 (1878), ベルリン会議 (1878),ハプスブルク朝のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合 (1908) などの国際紛争が,東方問題を彩る主要な事件であった。
しかし,ヨーロッパ外交史で伝統的に採用される東方問題という用語法は, 1821‐29 年のギリシア解放戦争以後に適用されるのが普通である。
一例をあげれば,カユエAlbレric Cahuetの《現代史のなかの東方問題, 1821‐1905 年 La question d ’ Orient dans l ’ histoire contemporaine, 1821‐1905 》 (1905) は,第 1 章を〈ギリシア,トルコ,ヨーロッパ〉と題して,1821 年のギリシア人のエテリア蜂起の勃発から東方問題の叙述を始めている。
山内 昌之(平凡社世界大百科事典)
Wikipediaでは(2012-03-20)
The Orient means "the East". It is a traditional designation for anything that belongs to the Eastern world or the Far East, in relation to Europe. In English it is a metonym that means various parts of Asia.
オリエント(Orient)は、東洋の訳語にあたる。その語源はラテン語で「日が昇る方角」を意味するオリエンス(Oriens)である。
中国で東洋とは、日本の別称。中国を中心として東側の日本のこと。日本語の東洋に相当する中国語は、「東方」という。
東洋とオリエントは本来同義であるべき一方、日本語の文脈においては、「東洋」がしばしば主に東アジアのみを連想させるのに対して、「オリエント」からは「古代オリエント」の地、すなわち日本から見て西に位置する現在の中東が主として連想されるという相違が生じる場合もある。
オリエンタリズム
エドワード・サイード(1935-2003は、西洋にとってオリエントのイメージは、異質な文明という先入観に基づいた西洋人の幻想、偏見の対象となっていると批判し、これを「オリエンタリズム」(英: Orientalism)と呼んだ。主にヨーロッパを通じて中東を理解してきた日本人のオリエントに対する意識にも、サイードの批判対象と共通する問題があると指摘される
wiktionaryのほうでは(2012-03-20)
Orientalism, (Pantheon Books, 1978).
『オリエンタリズム』 今沢紀子訳、
平凡社、1986年
〈平凡社ライブラリー〉、1993年。
著書『オリエンタリズム』(1978年)において、西洋におけるアジアや中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論を確立した。
オリエント [Orient<ラ oriens(昇る太陽)<oriri(発する)]
イースト the East
東洋(とうよう、英: Orient, the East)の指し示す範囲は、その文脈や使われる国や地域によって異なる。
林 大の「言泉」(小学館)
Eden(の園) ヘブライ語で「歓喜」の意
旧約聖書創世記の神話で神が人間の始祖
アダムとイブを住まわせた楽園
エデンの東(East Of Eden)
旧約聖書の創世記におけるカインとアベルの確執、カインのエデンの東への逃亡の物語を題材に、父親からの愛を切望する息子の葛藤、反発、和解などを描いた作品。
東 日の出る方向(十二支では卯の方向)
京都・大阪などに対して東京やひろく関東
江戸城の北の吉原南の品川西の新宿に対して、深川の遊里
東本願寺(派)
札幌市の区、名古屋市の区、大阪市の区、福岡市の区
西 「し」は風の意 風位からその方角もいう
「に」は「去(い)に」の「い」の脱落で、日の入る方角のいという
相撲などの左右対称に記された番付で、左側の称
「東」より半枚格が下がる
(Wikipedia)『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」 (2:8) にあり、アダムとイヴはそれを管理するためにそこにおかれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。
「エデンの東」・・。東が出てくる意味がいまいちわからない・・
オアシス(砂漠の泉)
Wikipediaオアシス(英語:Oasis)とは、砂漠やステップといった乾燥地域において、淡水が存在する場所をいう。
古代地図
ユートピア(トーマス・モア)存在しない場所
Wikipedia
「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである
理想郷, 桃源郷, 天上界, 天上, 天国, 天界 ...
https://www.ntticc.or.jp/index_j.html陶淵明による桃源郷
古代オリエント
Wikipedia 古代エジプト、古代メソポタミア(現在のイラクやシリア)、古代ペルシア(現在のイラン)などが含まれ、時期としてはシュメールが勃興した紀元前4千年紀から、アレクサンダー大王が東方遠征を行った紀元前4世紀頃までが相当する。
学問分野の名称として
古代メソポタミア史の研究は、欧米で「アッシリア学」とも呼ばれるが、それは、聖書研究の補助的動機からというお話。
(楔形文字を主たる資料とする)
もう一つ使われる 「古代中近東(学)」(Ancient Near East)は、ヨーロッパから見て最も近いアジアのこと。
「
日本から見て西のメソポタミアを中近東というのは落ち着かない。」
日本においては、アッシリア学が対象にする「西アジア」と「エジプト」を包含して「古代オリエント」と呼ぶ。
19世紀オリエンタリズム(ヨーロッパが発展の最高段階にあって、アジアを発展途上もしくは停滞した地域の一つとみなす思潮、最高の段階にあるヨーロッパに至る歴史というヨーロッパの進歩史観によって潤色された「西と東」もしくはオリエント観が反映する。サイードが実態のないものとして批判したもの)の反省から世界的にオリエントという言葉を避ける傾向があり、日本では市民権を得ているが、日本でしか通用しない「古代オリエント(学)」・・
(日本オリエント学会は英語では The Society for Near Eastern Studies in Japan)
日本における日本史、東洋史、西洋史の三区分からいえば、
東洋史の分野であるのに、西洋史の枠内で研究されてきた。
三専修制度から全ての地域・時代を対象にできる歴史学部とし、
その中の構成単位として、
「古代西アジア史」が
中立的な用語で望ましい(P10 前田 徹)
First updated 2004/08/22 、2005年 3月19日、2008年1月20日
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