原産地アフガニスタンから西アジア一帯
思文(「詩経」周頌)
后稷(こうしょく 伝説時代の堯帝の時の人。名は棄(き)。
農業をつかさどり、周王朝の始祖とされる人物。)が
天から麦をさずかった
天から賜った来牟(らいぼう)(?=おおむぎ)
来(來)は実って穂の垂れた麦(麥)の形の象形で、麦の原字
麦が天から降りてきたところから、來が『来る』の意味に用いられるようになり、
後で足をつけた麥(麦)の字が作られたもの
足がつけられたのは、麦は冬に根を踏みつける麦ふみの必要があるからと考えられる。
稲=米 孔子の時代はまだ一般的でなかった
黍=もちきび、
稷=うるちきび、
麥=むぎ
菽=豆類
五穀の中で
種を秋にまき、冬を越して翌年の初夏に実るのは麦だけ
→来年と半年を越して麦の実る翌年のこと…
白川静も同様の解釈だが
字源 「麥」の略体。「麥」は音符「來(来:古い音はmleg)」に「夂(=足)」を添えたもので会意形声。「來」は麦の穂を象ったもので、それが西方からもたらされたことを意味。「來」と「麥」は元来意味が逆であり入れ替わったものとの説あり。
天からではなく西からとなっている?(出典不明)(深井晋司(Wikipedia)編『デザイン誕生 古代オリエントの文様 』光村推古書院 1981.11)
不思議なことに彩文土器の中に農耕文化の姿を見ることは稀
彩文土器の文様は 幾何学文が代表であり、動物文がこれに続く。
植物文も散見されるが、それは樹木であることが多い。
数少ない資料
イラクのラス・アル・アミヤ遺跡(紀元前4500年ごろ)
メソポタミアの農業//前田和也編著[メソポタミア文明](河出書房新社フクロウの本)p68
運河の水で大麦を栽培
灌漑にもとづく麦作農業では、自然の降水にたよる天水農業(ドライファーミング)に比べて収穫量が格段に増大し、安定した生産力水準が毎年期待できる
メソポタミアでは、灌漑水に含まれる塩基物が耕地に集積し、作物の生育が次第に困難になっていく。南メソポタミアではすでにウル第三王朝時代(前三千年紀末)には、麦類はもっぱらオオムギが栽培され、小麦やエンマー麦がほどんと姿を消していた。 (※大麦に比べて塩化に弱い)塩化を防止するには、耕地の排水が不可欠。 種子の条播農法の採用。水を条間に流すことで塩化を防ごうとした。(エジプトでは散播)
古代メソポタミアでは、播種にあたって、耕起用の双柄犂に漏斗に似た条播器が取り付けられた
既に最古の文字書板(前四千年紀末)に犂を形象するサインが見える。
このサインを起原とするシュメール楔形文字は「犂」「農夫」以外に「播種条」、「条播する」をも意味することもできた。
一方 アッカド語では、「播種する」と「脱穀された穀粒を)風選する」が同一語で表現された。
この図の人物の間の十字と菱型も気になります。下部の3つの同じ図像も・・
前田和也編著[図説 メソポタミア文明] ですが、他に、神と王権━古代メソポタミアの「棒と輪」図像ももっと詳しく見たい⇒続く
オリエントの文様図版を見る⇒オリエントの文様
東 | 唐草図鑑 |