『美神の世界』
岩波美術館 歴史館 第3室
柳 宗玄, 前川 誠郎, 高階秀爾編集
【歴史館】 第3室 美神の世界―エーゲ海とギリシア・ローマ
岩波美術館 (歴史館 第3室)
美神の世界―エーゲ海とギリシア・ローマ
柳 宗玄 | 1985/3/27
新装版 岩波美術館 歴史館〈第3室〉
美神の世界―エーゲ海とギリシア・ローマ
柳 宗玄, 前川 誠郎, 高階秀爾 | 2002/7/24
※新装版でない「岩波美術館」岩波書店、24巻(テーマ館と歴史館)
の刊行年は…
テーマ館:
第1室:『ひとの顔』(柳宗玄)1983/
第2室:『ひとのかたち』(前川誠郎)1982/
第3室:『人びとの暮し』(高階秀爾)1982/
第4室:『踊るひと』(高階秀爾)1981/
第5室:『暮しのなかの静物』(柳宗玄)1984/
第6室:『生きものの姿』(柳宗玄)1982/
第7室:『ものがたり』(前川誠郎)1986/
第8室:『山と水』(前川誠郎)1985/
第9室:『木と草花』(柳宗玄)1983/
第10室:『建てものとまち』(前川誠郎)1983/
第11室:『幻想 : ファンタジー』(高階秀爾)1983/
第12室:『いろとかたちのリズム』(高階秀爾)1985
歴史館:
第1室:『かたちの誕生』(高階秀爾)1987/
第2室:『太陽王国の遺産』(柳宗玄)1987/
第3室:『美神の世界 : エーゲ海とギリシア・ローマ』(前川誠郎)1984/
第4室:『神の国とひとの国 : 中世ヨーロッパ』(前川誠郎)1985/
第5室:『天と地の賛歌 : 中世オリエント』(柳宗玄)1982/
第6室:『ブッダの世界』(柳宗玄)1984/
第7室:『東洋のこころ』(柳宗玄)1985/
第8室:『日本のかたちと美』(前川誠郎著)11982/
第9室:『ひとと自然へのめざめ : ルネサンス』(前川誠郎)1981/
第10室:『バロックとロココ』(高階秀爾)1983/
第11室:『ひとと自然をみつめる : 19世紀の美術』(高階秀爾)1982/
第12室:『さまざまな試み : 現代の美術』(高階秀爾)1982/
”美神の世界―エーゲ海とギリシア・ローマ”
岩波美術館(歴史館 第3室)新装版 美神の世界
(「BOOK」データベースより)
古代エジプト・西アジアでは神々や帝王の威厳の永遠性を表現するために芸術があったのに対し、古代ギリシアでは人間の生の移ろいやすさを認識して、人体を有機的に表現することを重視した。海の泡から生まれたヴィーナスが、芸術を司る美神とされ、彫刻や絵画などの造形は地域や時代の流れの中で様式的な発展をとげていく。
目次(「BOOK」データベースより)
『くちばし型の壷』(ギリシア、クレタ島)/『ヴァフィオの杯』(ギリシア、ペロポネソス半島)/『幾何学文の壷』(ギリシア、アテネ)/『オセールの婦人像』(ギリシア、クレタ島)/『ペプロスを着た少女』(ギリシア、アテネ)/『将棋をさすアキレウス』エクセキアス/『ボール投げをする青年たち』(ギリシア、アテネ)/『家族の出会い』(イタリア、タルクィニア)/『夫婦の像』(イタリア、チェルヴェテリ)/『弓を引くヘラクレス』(ギリシア、アイギナ島)〔ほか〕
この巻の、パルテノン神殿、ギリシア美術の4様式など、以前部分的に見ていました。 greece/greek_koten.html
ここでは全体的に・・
※美術史家前川 誠郎(まえかわ せいろう 1920-2010)
デューラーおよびネーデルラント等の北方ルネサンスの美術に業績があり、1975年以来ライヘナウの修道院聖堂の実地調査を行った(wikipedia)
柳 宗玄(やなぎ むねもと、1917-2019)
1972年『ロマネスク美術』(学研)の編集で毎日出版文化賞受賞 (wikipedia)
高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932-)
多くの美術書で啓蒙的役割 ルネサンス期以降の西洋美術が専門 (wikipedia)
新装版のこの一冊への解説(前川誠郎)
以下抜き書き引用であるが、この本にはページナンバーが付されていない。(実線長方形内は巻末の8ページから、点線は各作品解説ページからの抜き書き。)
美神の存在
アフロディ―テと呼ばれるにせよウェヌス(魅力)と呼ばれるにせよ、「美の女神」だが、
「芸術を司る」という意味での美神になるのは、イタリア・ルネサンス以降。
ギリシア・ローマの神話での彼女の行状(ぎょうじょう)は、「娼婦の守護神」「戦争の女神」
(トロや戦争 歴史館第9室第16図)
彼女の唯一最大の徳目は美人であること.
数ある彫像の中で最も有名な《ミロのヴィーナス》
1820年メロス島で発見
そのやや後輩
《キュレネーのヴィーナス》(テーマ館第2室)
いずれもギリシア美術末期紀元前2世紀or1世紀
《美神の誕生》ルドヴィシの玉座
愛欲を司る女神のかたちとして裸体像はふさわしいかもしれない。しかし、はじめから裸体ではないことが分かる。
ルドヴィシの玉座Photo⇒ローマ・アルテンプス宮にて(2017年の旅20170526)
人体の移ろいやすさ
紀元前6世紀の初め、ギリシア的と呼びうる特色をそなえた作品が生み出されていく。
ギリシア美術の基本は、有機的な人体表現の芸術という点にある。
有機的とは、頭首、胴、四肢などの各部分がそれぞれの機能を保持しつつ全体の中に組み込まれているということ。
それから人体比例という考え方が出てくる。
もっとも大切なのは、ギリシア人が人体の移ろいやすさをよく認識していたいうこと。
エジプト、西アジアでは、永遠への志向が優先している。・・ プラトンはむしろそれを賛美(テーマ館第2室総論)
ギリシア人は永世の観念とは無縁。市門のほとりに位置する墓地には、墓碑が建てられ、さまざまな壺が置かれた。
墓碑には故人との別れを嘆く言葉が淡々と記され、あとに残された生者が死者を冥界の住居に訪ねていく図柄が彫られている。
エウリュディケ―とオルフェウスの物語は、こうしたギリシア人の姿勢観を表わしている。
テーマ館第2室総論参照せよとのこと。
裸体像と着衣像
ク―ロスと呼ばれる青年像も多くは墓地に置かれたもの。
戦死或いは夭折した青年の、最も美しい姿をこの世に残そうとした。
最美の姿とは裸身。
一方、コーレと呼ばれる着衣の女性像は、神殿や神域に置かれた。
みなキトンやぺプロスを身に纏う。
末期の全裸のアフロディーテでギリシア美術を代表させようとするのはあやまったイメージ。
第12図《クリティオスの少年》Kritios Boy
紀元前480年ごろ、アクロポリス出土、大理石、高さ86㎝、アクロポリス美術館
大理石面の保存良好。おそらくペルシア軍のアテネ襲来直前に制作されてまもなく倒される運命に遭った像であろう。
クリテクオスは彫刻家の名前
紀元前480年ごろの彫刻は、10年または20年を一区切りにして目覚ましい変貌を遂げる。
コントラポスト(contrapposto)とは、体重の大部分を片脚にかけて立っている人を描いた視覚芸術を指す用語
西洋の彫刻におけるコントラポストは、人体によって心理状態を表現するという最初の技法であり、彫刻の発展において非常に重要である。
クリティオスの少年像の均整の取れた調和したポーズは、落ち着いてリラックスした気持ちを表しており、その像が表している理想的男性の気質の均一さを表している。これ以降、ギリシアの彫刻家は人体をつかって人間のあらゆる経験を表現しようとし、ヘレニズム期のラオコーン像(紀元1世紀)の必死の苦悶と哀感において最高点に達した。
(wikipedia20210817参照)
So-called “Ludovisi Throne”: left-hand panel, a naked woman playing the aulos (double flute). Thasian marble, Greek artwork, ca. 460 BC (authenticity disputed). Found in 1887 during public works in the Villa Ludovisi.
第14図《笛を吹く女.》ルドヴィシの玉座
紀元前460年ごろ、大理石、高さ82㎝
ローマ、国立美術館
1887年にローマのヴィラ・ルドヴシで発見 おそらく、
イオニア美術の系統をひくマグナ・グラキア(南イタリア)で作られた
この裸体の乙女は、反対側の着衣の婦人と対照をなす。美神に仕える巫女か侍女。
So-called “Ludovisi Throne”: right-hand panel, a woman wearing a tunic and a cloak places incense in a thymiaterion (incense-burner).
様式上この作品に近いものは紀元前456年に完成したオリンピアのゼウス神殿を飾る彫刻群。
紀元前5世紀初頭のアファイアとその世紀の後半に入ったパルテノン、両神殿の中間に位置し、ギリシア彫刻が成熟期に達する直前の姿をよく示す。
第10図《弓を引くヘラクレス》(アフィア神殿東破風のうち)
紀元前490~485年ころ、アファイア神殿遺跡(アイギナ島)出土
大理石、高さ79㎝
ミュンヘン、国立古代美術館 グリプトテーク
中世の美術は表現対象の精神性によってその大きさを決めたのに対し、ギリシア彫刻では人体の自然な比例を尊重、中央部のヘラクレスは座り、破風の両端の人物は横臥像になる。
アルカイック期からクラッシック期への過渡期の典型的な作品
※古代ギリシア芸術(4様式)2014k/greekart.html
Hestia, Dione and Aphrodite, from Parthenon east pediment.
第15図《三女神(パルテノン神殿東破風群像のうち)》
紀元前438~432年ころ、大理石、右端の像高さ144㎝
ロンドン、大英博物館
”露の姉妹” 盛期クラシック芸術の神髄を示す
アクロポリスに聳えるパルテノン神殿は廃墟につきものの感傷のひとかけらもな晴朗さに満ちている。
そこを飾っていたフェイディアス派の彫刻は、ほとんど取り去られ、大部分が外国に持ち出されてしまった。しかし現地にのこる神殿そのものが見事な彫刻。持ち出された彫刻はギリシア美術の精華を世界に知らしめる。
16図《乙女の行列》(パルテノン・フリーズのうち)
紀元前442-438年ころ、大理石、高第さ105㎝
パリ、ルーブルEgastinai frieze Louvre
So-called Ergastinai (“weavers”) block, from the east frieze of the Parthenon in Athens. Traces of ancient polychromy, Pentelic marble, c. 445–435 B.C.
パルテノンは4周に46本のドリス式円柱をめぐらした神殿
その内側の内陣の外壁上部を帯状の浮き彫りで飾る。全長163メートル。
西南端を起点として二群に分かれた人馬の行列がそれぞれ東正面に向けて進んでいく。神々と人間が368体、馬が219頭、牛14頭、羊3匹。
4年に一度、守護神アテネに美しい衣服(ぺプロス)を奉納する祝祭開催。神殿に沿った参道はオドス・ヒエラ(神聖な道)と呼ばれていた。
様式の発展
有機的な人体表現、それ故に様式の発展が存在した。
アルカイック(プリミティヴ)→クラシック⇒バロック(ギリシアでは、ヘレステッィクあるいはペルガミンック)
ぎこちなさを残したういういしい生気
→調和のとれたおおらかな静かさ
→激しい動きや官能性の表現
第13図《デルフォイの御者》
紀元前470年ころ、アポロ神殿遺跡(デルフォイ)出土
ブロンズ、高さ180センチ、デルフォイ美術館
アルカイック期と一線を画する何かが新たに加わってきた。
最も目立つ特徴は、それまでの像の口元に浮かんでいた微笑が消えたこと。「厳格様式の到来」「古典様式の成立」
テーマ館第2室の《ポセイドン》と並ぶ厳格様式屈指のブロンズ像の名作。
クセノクレスの画家《走る戦車》タルクィニア、国立美術館
(Xenokles Painter)Xenoclesゼノクル
第21図《アルドブランディーニ家の婚礼図》
第5図《ぺプロスを着た少女》
第21図《笛を吹く女》
彫刻的芸術
絵画より彫刻(触覚の芸術)
神殿は神々の住まい、外から眺めるもの・・荘厳は外に厚い
類なき美神の世界もそれを嫌悪し破壊しようとする異教世界の脅威にさらされていた。
アテナ パルテノン神殿
ローマ、サンタ・マリア・マッジョーレ
途中です(20210817)
永劫回帰
異教世界の脅威の反面、繰り返しルネサンスという現象が起こった。
今日の我々が抽象彫刻を作る一方で、古代ギリシア美術への尊敬を失っていない。
中世美術の担い手はギリシア・ローマ世界
を滅ぼすに至ったゲルマン人。
しかしよく見れば、その根底に古代美術が潜んでいないものはない。
しかも9~11世紀のカロリング朝あるいはオットー朝の美術や
13世紀のイタリアで認められるプロト・ルネサンス美術のごとき顕著な古代(ローマ)志向は、15~16世紀のルネサンスが突発的な現象ではなかったことを物語る。
ヒューマニズムの復興、有機的人体表現の回生。
「古典的古代」・・そこで、一つの民族や時代を超えて通用する人間観の典型が形成されたという認識。
《よき羊飼い》(ローマ、ラテラノ美術館)
これもテーマ館2を参照→themakan_2.html
ギリシアとローマ
ミノア文明・ミケーネ文明・・(考古学的遺品)・・直接ギリシア文化に続くことはなかった。
エトルリア文明・・(紀元前8~6世紀・イタリア中部で最も隆盛を極めた)・・・ギリシア文化の影響を強く受け、紀元前4世紀の初めにはローマの支配下に同化吸収された。
ギリシアは19世紀後半以降の考古学的発掘がその実を再び明らかにするまで、ローマ美術の背後に隠れ続けてきた。
熱狂的な古代崇拝で知られるルネサンスの人々が復活させた古代はローマ。ギリシアを征服したローマは更に偉大であったと単純に信じていた。
近世に入って最初の系統的な『古代美術史』(1764年)を表わしたヴィンケルマンも実際に見ることができたのはローマ時代のもの。(コピー・模作)
さらに複雑なのは、中世以来ギリシアと呼ばれたのはビザンティン世界。
それは西方のラテン(ローマ)世界に対立するもの。
ローマ・・肖像画と大壁面の絵画装飾分野では傑出した技量を見せた。
ローマ人はその版図に入れたギリシア世界の各地から莫大な数の美術品をイタリア本土に運び、更にその模作でもって帝国の各都市を飾った。
ローマはギリシア美術のための大きな貯水池の役割を務めた。
第22図《皇帝(紀元前アウグストゥス》
ヴィンケルマン・・美術史家winckelmann.html、ラオコーン像賛美(論争)、ミケランジェロが芸術の軌跡と呼んだラオコーン像greece_hebi.html
旅写真(20170531―べェルヴェディーレの庭)
ギリシア美術の流れ
アルカイック期(紀元前6世紀初め)に先立つ幾何学様式期(紀元前800~600年)に属する彫刻や陶器があった。
アルカイック期(紀元前600~500年)
破風やフリーズを飾る彫刻群
コルフ、コリント、アイギナ(エギナ)またはアテナなどの神殿の遺跡
陶画は黒会式(第6図)によって代表され、この期の終わり近くに赤絵式へと次第に移行。
絵付師や陶工の名の知られるものもあって、彫刻や絵画に先んじて「名のある美術史」を組み立てることができるのは、驚くべきこと。
第4図《オセールの婦人像》
第3図《幾何学文の壺》
《スニオンのク―ロス》(アテネ、国立美術館)
クラッシック前期(紀元前500~400年)
オリンピアのゼウス神殿やアテナのパルテノン神殿
彫刻家フェイディアスやミュロン
ポリュグノートス、パラシオス、ゼクシウスなどの絵画の巨匠はただ文献に名を残すのみ。
ギリシア陶画赤絵式の壺絵がこの木の前半に最盛期。その後急降下。
第11図 赤絵式の壺絵
クラシック後期(紀元前400~300年)
代表的な彫刻家はプラクシテレス・・コピー《ディオニュソスを抱くヘルメス》
第18図《デイオニュソスを抱くヘルメス》
ヘレニズム(紀元前4世紀末から紀元前1世紀末ころまで)
小アジアやエジプトへと拡散
ペルガモン祭壇(紀元前180~160年)や《ラオコーン群像》(第21図)において極点に達する。
紀元前1世紀末までにローマの世界支配は決定的となり、ギリシア及びヘレニズムの文化はローマ帝国という一大社会に取り込まれ、そこでまた新たな不死の生命を授かりながら幾度となく復活の軌跡を演じ続ける。
アルドブランディ―二家の婚礼図
Aldobrandini wedding
(H.マルヴィッツによる復元図)
(ローマ、ヴァティカン美術館)