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葡萄唐草文の文化史
p89 第27図 リュトンに描かれた葡萄唐草文猟苑図
(前2~1世紀 ニサ出土)
M.E.Masson,G.A. Pugachenkova,Parfjanskie Ritony Nisyによる
ニサはトルクメスタンの首都アシュハバードの郊外にあるパルティアの都城址
1946年から60年にかけてソヴィエトの考古学者M.E.Massonと夫人のG.A. Pugachenkovaがニサの遺跡を発掘。象牙製のリュトンを多数発掘。
アレクサンダー大王の遠征以来、ギリシアやローマの文化が中央アジアに流入したことが明らか
p91 第28図 仏教寺院のピラスター(1~3世紀 ボストン美術館蔵)
2本の葡萄が左右に交差してメダイヨンを作りながら柱の上部に続いていく文様
それぞれのメダイヨンの中には、葡萄の葉・実の他に、世俗的・官能的な図柄が彫刻されている
イラン系民族で歩くシャーン仏教徒がイメージしている楽園
「当時のクシャーン族仏教徒はゾロアスター教から仏教に改宗した人々であったので、このような、一見、非仏教的な楽園=極楽の図像が生まれたのであろう。」
(田辺勝美『ガンダーラから正倉院へ』)
葡萄が豊かに実る楽園=極楽のイメージ
p93 第29図 葡萄唐草文銀盤部分(5~6世紀リャフシュⅡ遺跡出土)
葡萄唐草文と女性を表した文様
(p92)中央アジアでは5~6世紀、トハリスタンからアフガニスタンを中心に遊牧民族エフタルが他の民族を支配していた。
1978年タジクスタン、リャフシュⅡ遺跡の第3クルガンから発掘
銀皿の中心部分のメダイヨンには、左右から生えている葡萄の木をつかんだ裸の女性が立ち、女性の足元には池(川)とチューリップが描かれていた。
葡萄の木は左右からゆったりとスクロールして、上部中央で接触してアーチを作り、実と葉は大きく表現されている。
ササン朝の影響を受けたもの
p75 第30図 葡萄唐草文銀盤部分(5~6世紀 大英博物館蔵)
大英博物館所有の別のエフタル族の銀皿
左右に生えている葡萄唐草文の中にクベーラとヤクシニーの酒宴図が描かれる。
この両神格の職能はディオニュソス神と同じ豊穣を司どるものであったから葡萄と共に表現されたのであろう
エフタル族の覇権が瓦解した後中央アジアを支配したのは西突厥だが、商業にたけたソグド人が各オアシスに都市を形成していた。タジキスタンのピャンジケントは8世紀半ばイスラムの進出によって滅びた。その遺跡より出土
大きな葡萄の葉や実が彫刻されていた
p99 第32図 葡萄唐草文銅杯(3世紀 大同出土 山西省博物館蔵)
1970年発見 朝日新聞社『文化大革命中の中国出土文物』
中国の葡萄唐草文はすでに漢時代の織物に見られたが、北魏時代になると仏教寺院の装飾や木棺の装飾に葡萄唐草文が施されるようになった。
葡萄唐草文の中に葡萄収穫の童子を配した高脚つきの杯
p102 第32図 葡萄唐草文銀盤(2~3世紀 甘粛省博物館蔵)
p105 第34図 拱門の葡萄唐草文(5世紀 雲崗石窟第10窟)
p108 第35図 漆棺画(5世紀 国原県博物館蔵)
葡萄の実が不ぞろいで、葉のそばに実のような玉がついているどころどころに尾の長い鳥が配置されている
メダイヨンの中に反パルメットのような葡萄の葉が左右に分かれ、その上に鳳凰、龍、人首鳥身文様を配している
西王母は崑崙の山(地上の楽園)にすみ、そこに不死の木があるとされていた
塼=煉瓦
p110 第36図 葡萄唐草文(7世紀 西安大明宮出土)