聖樹聖獣文様
一般的な四天王像とは全然イメージが違う、法隆寺の国宝 四天王像 4躯がこちらでみられる→http://www.asahi.com/houryuji/(「国宝法隆寺金堂展」)
こちらは法隆寺の金堂須弥壇上四隅に安置される、日本最古の四天王像(650年ごろ)とあり、
「クスノキを用いた木彫で、宝冠や光背の縁などに金銅製の透彫金具をつける。」 ・・とあるように、
東大寺の二組の四天王のような、「鎧の武者」のすがたではない。(鎧は着ているというのだが・・)>
四天王は、「一般には瞋目威相の武将姿」だが、こちらは古様な、「四天王寺様」といい、一方、戒壇院の方は、「唐様四天王」の一例と「新潮世界美術辞典」にいわく。
意外に感じたのだが、 何か、乗り物に乗っているかのように、鬼神の上に静かに「乗っている」。
四天王というのは、悪鬼を踏みつけているように感じられたのだが、そうではなくて、下にいるのは四天王の命令を待っている、「夜叉神」、眷属(従者)であるという。・・(by
西村公朝 ;「魅惑の仏像 四天王」毎日新聞社めだかの本2000)
法隆寺の四天王は像高130cmあまりでさほど大きくない。
「国宝 法隆寺金堂展」
検索
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_07_12.htm
『別尊雑記』所載の持国天像と増長天像などの図や、邪鬼
飛鳥時代の法隆寺の四天王像は、邪鬼の背上に敷物があって、その上に四天王像を乗せるという、いわゆる”乗座”の像造形意識が働いたとみなすことができる。当麻寺四天王以降の邪鬼は悪魔的で、仏教にあだなす存在となり、踏みつけられる“踏鬼”の四天王ということになる。こうした邪悪の存在を足元に踏みしだくため、四天王の顔には憤怒相が現れ始め、その表情は時代とともに険しさを増していく。
・・(守屋正彦『すぐわかる日本の仏教美術―彫刻・絵画・工芸・建築 仏教史に沿って解きあかす、美の秘密 』p5)
ササン朝ペルシアの日月文は法隆寺の造形にあらわれ、救世観音の宝冠や四天王の宝冠の上部に、日月文がある。(p30)
平安時代の東寺の四天王像は怒りの動勢が強く表れた像で、二鬼を踏みつける。腕には獅噛み、ちょうど臍のあたりにも正面を向いて獅子が腰ひもを噛むようにあらわされる。この腹前に顔を表現する仕方は、西洋のメドゥーサをあしらう造形に見ることができる(p51)
新潮世界美術辞典 によれば、一般に四天王は4種の異類(竜・ヤクシャなど)を裁量する武神である
須弥山の中腹の四方に住所があり、それぞれの方位において仏法を守護する護法神
大乗仏教になって、護国信仰が普及
武将姿は中央アジアから中国に伝わって成立
邪鬼を足元に踏んで破邪
の性格を強調するのはインド以来
古風な像例に法隆寺金堂像(四天王寺様)・・朝鮮や南北朝時代の中国の像容を偲ばせる
)
唐様四天王の一例:東大寺戒壇院像、持国天が剣、増長天が矛、広目天が経巻と筆、多聞天が宝塔(いずれも後補)
密教になってkらは異説が多く像例も様々
一方チベット系は他と異なり、持国天が琵琶、増長天が剣、広目天が索、多聞天が宝鼠または宝塔(例:9世紀敦煌壁画)
この「新潮世界美術辞典」に挙げられている四天王寺像は9組・・以下はこの辞典から引用
康慶の弟:実眼(じつげん)作
袖や背面の裳裾を短くした形
動きの多い身振りや顔面の筋肉描写、彫りの深い衣の襞などに新しい写実的表現が見られる。寄木造、彩色、像高197.2cm
太造りで、充実した量感、奈良時代から平安時代への過渡的な様式
運慶一門によって作られた者が失われた後、安置された、もと大安寺にあったもの(791作)
木心乾漆 像高134.5~139cm
平安中期。九体(くたい)阿弥陀堂の四隅にあるが一具のものかどうか不明。フトづくりのんかに繊細さを加え、劇場の中に優美さを感じさせる。甲冑の切金(きりかね)彩色は多様で華麗、火焔光背の中心部と邪鬼方座はすべて当初のもので、藤原時代世紀(1047年)前後の作と思われる。
立像、寄木造、彩色。像高167~160.5cm
国宝木造四天王立像のうち広目天
*広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託されている
白鳳時代の仏像
7世紀後半に制作された脱乾漆造りの太造り、立像で、古風。乾漆像としても日本最古
像高約220cm
平安前期あるいは奈良時代の仏像(9世紀初めという説が有力)
動きの少ない天部系で、穏やかなうちにも気魄のこもった面相と、簡略で彫りこみの浅い胴身部には、奈良時代の唐風に倣った気宇の大きな表現が見られる。ヒノキの一木造りに乾漆を部分的に用いている。
像高184.8~189.5cm 木心乾漆
【奈良・唐招提寺/四天王立像(平安初期)】木造、乾漆併用。彩色。梵天、帝釈天と同時期、同一工房の作と考えられる。造りに多少の変化はあるが平坦な顔立ちで穏やかな表情。動きが非常に少なく、衣文も簡素。奈良時代の典型的な天部像。 pic.twitter.com/xawzsNmw3a
— 美しい日本の仏像 (@j_butsuzo) 2016年2月28日
奈良時代の仏像 8世紀半ば頃の作
均整の取れた死体は自然な肉付けと動きが与えられ、4体相互の間でも表情姿態に緊密な有機的関係がある。その調和と秩序の表現に天平世紀の完成された古典様式が示されている。
一部に切金を用いた華麗な彩色が残り、瞳に黒曜石を嵌入する。あるいはもと法華堂日光月光菩薩と一具とも思われる。
立像、塑造、彩色。像高133.3~134.8cm
奈良時代の仏像 本尊の不空羂索観音を守護する。本尊と同じく天平21年(749年)頃制作
脱乾漆の技法により内部には木枠があるが、長年の乾燥により、一部ひずみを生じたものもある。ゆったりとした体躯のとらえ方や力のこもった面貌には、天平期の武将形像として典型的な作風を伝える。
立像。像高300~
310cm
奈良時代の仏像 広目天光背背面に山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)(この仏工の650年の造仏が「日本書紀」によって知られるので、制作年代もおよそ察せられる)
後の四天王像と違って動きのない正面向き直立の姿。止利派の作品と比べると像に丸みがあり、奥行と側面観が意識されている。クスノキの一木造、切金を交えた彩色が施され、宝冠、腕釧(わんせん)、臂釧そのほかの見事な透かし彫り金具で荘厳されている、邪鬼の姿も優れている
立像。像高133~135cm300~310cm
(『続 仏像 その心とかたち』p113)
この形式の四天王像:玉虫の厨子の扉絵
当麻寺金堂の四天王
法隆寺金堂の四天王像は、鎧を着けた武人の姿だが、頭に宝冠をつけ、長袖そでの衣服もつけている。
法隆寺食堂の塑造四天王像は、目が三角で怒りの激しさを強調するが、全身は静止的。衣装に袖がない
鎌倉中期の仏教絵画。明治初年の廃仏毀釈で廃絶した大和内山永久寺真言堂内陣の障子絵に比定される 1253年尊蓮房重命(超妙)の筆。荒海の打ち寄せる岩上にうずくまる一邪鬼の背上にたち、傍らに供物をとるほかの一邪鬼を従えた図。威風堂々。 絹本着色。4偵、各約148cm×約73cm
*こちらに(お寺と展覧会の)写真がありましたhttp://news.walkerplus.com/article/37725/
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=628146
おさらいであるが、四天王は・・仏教以前からインド人の間に信仰されていた神で、世界の中心である須弥山の頂上に住む帝釈天の眷属
お寺のお堂は大体、南向きに建てられているので、
須弥壇に向かって
右前(東南)に持国天、
向かって左前に増長天
左後ろに広目天、
右後ろに多聞天が置かれる・・・・
(西村公朝
「魅惑の仏像 四天王―奈良・東大寺 (めだかの本) 」p50)
木造四天王立像興福寺 中金堂 :鎌倉時代の重要文化財↓
【奈良・興福寺東金堂/四天王立像(平安初期)】檜材。頭から邪鬼、下の岩座の中心まで一材から彫りだしているため、肉厚で重厚感がある。一部乾漆で形成。瞳は黒漆を用い、身体も像ごとに四色に彩色、着衣に繧繝彩色と截金が施されている。 pic.twitter.com/6L6MStX6Kn
— 美しい日本の仏像 (@j_butsuzo) 2016年2月22日
ギリシア・インド的四天王像(戒壇院の四天王、天平文様)
ヒンドゥー教の神格と仏教の天部
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