聖樹聖獣文様
小学館世界美術大全集(1997)4
『ギリシア・クラシックとヘレニズム』(水田徹編、1995年10月)
第5章:「ギリシア伝統の東方伝播とローマ美術への継承」
*青柳正則(1944生):ローマ大学、ポンペイ発掘 wikipedia
*田辺勝美(1941生):ぺシャーワル大学、ガンダーラ wikipedia
この、世界美術大全集西洋篇4の 「ガンダーラのギリシア式仏教美術」だが、具体的なギリシアの神名とその変容伝播、日本に至るまでの仏教美術について、細かく見ているのが 面白い。
ちなみに「無仏像時代」は、釈迦入滅から仏像の始まりまで、500年以上もの長い期間だったという。‥by「すぐわかる日本の仏教美術―彫刻・絵画・工芸・建築 仏教史に沿って解きあかす、美の秘密
」(守屋正彦著 東京美術2003)参照‥これについては、みうらじゅんさんが 「それは仏陀の肖像権が切れたということだ」といったので、思わず笑った覚えがある。「そういうことなのか~~」
Buddha on Lion Throne, Takht-i-Bahi, Gandhara, 2nd-3rd century AD,
schist - Ethnological Museum, Berlin
本を見つつ、ネットの画像検索なのだが、このwikipedia の画像は、本書(田辺勝美先生著の部分) 図294の釈迦牟尼仏陀坐像とおなじものだと思うが、こちらの写真では目の感じが全く異なって見えた。また、本書のキャプションでは後1~2世紀で、ちょっと年代表記がずれている。
「ガンダーラ出土 片岩 高さ52cm
べルリン、インド美術館
Buddha seatet from Gandara.Museum fur Indische Kunst,Berlin.」
*座面にライオン獅子2頭(頭と手が)見えるのもチェック
母の右の脇の下から誕生し、頭光がある。服の中に両手を通そうとしている・・?
後2~3世紀 ガンダーラ出土 片岩 高さ67cm ワシントン、フリア美術館
Mara's Assault and Budda's Enlightenment From Gandahara
. Freer Gallery of Art,Smithsonian Institution,Washington,D.C.
左上にイノシシ頭、牛頭、猪頭、猿頭の怪物がいるが、記念写真みたいに列が整っている。
頭上のアーチはツタの葉のよう・・これが菩提樹?
足下の台で、ペルシア的な兵士を抑え込んでいる。良く見ると右上にも馬に乗っているのは獣頭で、ラクダや象もいる。魔王マーラというのがどの像なのかわからないが、石みたいなものを背負い投げしようとしているのや、武器を手にしているものや、あるいは周囲のすべてなのか?‥四方八方にいるさまざまな武器を持つものは魔の軍勢で、手前に立ち、まさに剣を引き抜こうとしている紳士?がそれだそうだ。
*釈迦の四大奇跡(誕生、降魔成道、初説法、涅槃)ガンダーラ出土2世紀、縦67センチ×横290センチでつながっている
「ギリシア美術が東方において最も大きな影響を及ぼしたのはガンダーラの仏教美術であろう 」
ギリシアの神々の個別的図像がガンダーラの仏教彫刻に用いられている点を明らかにする
アテナ女神
ヘラクレス神
ディオニュソス神
テュケ女神
アネモス(あるいはボレアス)風神
アポロン神
ヘファイストス火神
ヘルメス(メルクリウス)神
Wind god Boreas, Hadda, Afghanistan. Musee Guimet.(by wikipedia 閲覧)
アネモネ風神像・・北風のボレアス、天空の神ウラノス(カエルス)を合体してクシャン朝下のバクトリアで創出された
ギリシアのアルカイック期の風神(ボレアス)やクラシック期の陶器画などに描写されたボレアスの系譜に属す
ヘレニズム後期やローマ時代の風神のような「空中遊泳型」「頭に小さな翼をつけた胸像型」の風神とは異なる、つまり
地中海沿岸のローマ美術ではなく、バクトリアに伝播したヘレニズム初期の図像に由来する。
ゾロアスター教の風神ウァドーOadoを表すために用いられた(この合体像はやがて、翼が脱落)
このウァドー風神がガンダーラの仏教彫刻に取り入れられた
風をいっぱいにはらんだマントは、ニンフや天空の神カエルスの手にするマントないしショールに由来する。
フヴィシュカ王の時代に、このマントないしショールが太い紐ないし袋状に変化した
それが六朝時代の中国に伝播(敦煌第249窟天井画の風神雷神図)
中国の伝統的な風神像は後漢の「画像石」に見られるように ラッパのようなものを口にくわえて風(息)を吹く出す姿で描写される
*「画像石」とは。http://jiu.ac.jp/museum/によれば、「中国の後漢(25~220年)の時代に、地方の有力豪族によって、石造の墳墓を造営することが流行しました。死者があの世に逝ってからも、生きている時と同じ生活ができるよう、地上の建築を地下に持ちこんだような、豪華で広い空間をもつ地下石室(墓)が造られた。
画像石とは、そうした石造の墓の壁面・門扉に絵を線刻したもの
<」br />
六朝時代に風袋を胸に抱える風神図
西方形の風神像と六朝時代の中国起源の風神像が合体し、
「両手で風袋を肩に担ぐ風神像」が中国で成立
*http://avantdoublier.blogspot.jp/2015/01/blog-post.html
商業の神ヘルメス神は楼蘭出土の織物にも織り出されているが、 クシャン朝の財宝の神ファッローの造形化に用いられた後、ガンダーラの仏教彫刻にも取り入れられ、北方の守護をつかさどる毘沙門天(多聞天)を表すことになった
毘沙門天の起源はインドのヤクシャ(薬叉)の一人で財宝の神といわれるクベーラである(vol.4-331)
wikipedia 閲覧20160209には、「インド神話の財宝神クベーラを前身とする。」とだけしかなく、ギリシア・ローマに続いていないので、この話は面白い。
図275(vol.4-334) 四天王奉鉢 後3~4世紀 ガンダーラ出土 片岩45×58cm
神奈川 平山郁夫コレクション
Offering of the four bowls From Gandahara.Hirayama Ikuo Colledtion、Kanagawa
左から2人目が(兜跋)毘沙門天(頭に一対の翼あり)
この図(ほかにフヴィシュカ王金貨に刻印されたファッロー神、 頭に一対の翼をつけた兜跋毘沙門天、地天に支えられ、鳥翼冠をかぶった兜跋毘沙門天像(版画)など計4図)と解説がこちらにありhttp://sunixm3.um.u-tokyo.ac.jp/ :「ギリシア・ローマから日本へ -ヘルメース・メルクリウス神から(兜跋)毘沙門天へ-」 (by 田辺勝美)「丹念に古代ギリシアやローマの美術作品と比較していくと、その図像は古代地中海世界に源流が存在することが判明する。」
国宝 兜跋(とばつ)毘沙門天像(教王護国寺=東寺)
唐代(9世紀)木 高さ189.4cm
Vaisravana. Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten
「地天女の両手に支えられて立ち、二鬼(尼藍婆、毘藍婆)を従える姿で表された特殊な像」・・・・これはびっくり。しかし、四天王についてはここではこれだけであった。→こちらで、別に見ます。
ヘファイストス神=アフロディテの夫、建築家、工芸家
本来は鍛冶の神、火神ということで、クシャン朝
火神アトショーを表すために使用された
カニシカ一世の金貨には、手にはディアディーマ(鉢巻き、正当な王位の印)を持ち、国王に対して王権神授を行っている
しかし次のフヴィシュカ王の金貨にはヘファイストス神本来の持物(じもつ)である鍛冶火箸とハンマーが握られている。
金剛を手に持つ者・・釈迦牟尼のボディガード(ガンダーラで創造された)
「ギリシア、イラン、インドの神々の特色を総合して新しい神格を作り上げ、それを釈迦牟尼の従者・護衛の地位に貶めることによって、相対的に仏教がこれらの異教よりも優れていることを顕示しようとした」(vol.4-335)
「クシャーナ朝のカニシカ王の時代に隆盛を極めたガンダーラ美術では、仏陀の脇侍としてヘラクレスが配される例がしばしば見られる。」wikipedia 閲覧 ヘラクレスの姿形を取ったヴァジュラパーニ(左は仏陀。大英博物館)これについて、東大寺の執金剛神は、仁王像に似ていると思ったら、この執金剛神から仁王像が派生したのであろうという話であった
金剛力士は、本来は金剛杵を執って釈迦の近くで仏法を守護する執金剛神という1つの神であったが、インドで2分身となった。2体に分かれていることから仁王(におう)とも呼ばれる。仏像:wikipedia 閲覧
Pharro and Ardoxsho. British Museum.
出産や安産をつかさどる神
手に持つ柘榴(ざくろ)によって明らかなように本来は豊穣多産の女神、ハーリティー
モデルはイラン系の豊穣の女神アルドクショー(豊穣の角コルヌコピアを持つ)=図235右端のクジャクの羽「を持つ女神 、そのモデルはヘレニズム美術で流行した都市の守護女神テュケ
テュケの特色は頭にかぶった城壁冠で、釈迦牟尼の「出家出城」の場面にしばしば描写される (vol.4-336)
*アッシリア式のジグラット型矢狭間(オールムズド神の象徴)by「ペルシア美術史 」(深井 晋司・ 田辺 勝美 著、吉川弘文館 (1983/01) 刊)
*ザクロの象徴するもの
「すぐわかる東洋の美術―絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術」(竹内順一) 第2章「仏像」p44
インド 1世紀から3世紀 ガンダーラ仏:西洋文化との融合で生まれた造形美:ヘレニズムの顔貌
仏像の起源論争
古くから有名な論争;
いわゆるガンダーラ・マトゥーラ論争
両者はbほぼ同時代(クシャーン朝)と見られるが、現在ではガンダーラのほうがわずかに早く起源一世紀末頃、マトゥーラーでは二世紀初頭ごろに初期の造像がなされたとするのが通説となっている。
紀元一世紀末、仏陀なき仏伝図の象徴表現を、頭光や僧衣をつけた人物像に置き換えたものが登場する。これが仏像の始まりである。初期の仏像は、はじめ仏伝図中のほかの人物と同程度の大きさであったが、次第に大きく目立つように表現され、これが礼拝の対象となる
思索的な表情と写実見あふれる肉体表現菩薩立像
菩薩立像:ギメ東洋美術館蔵
石造 像高120cm 1~3世紀
Art of Gandhara in the Musée Guimet
フランスのインド学者フーシェが、19世紀の発掘調査で、パキスタンのシャーバーズ・ガリにて入手したガンダー美術の名品
東部のターバンにはナギターニー(龍女)とガルーダ(金翅鳥)をあらわす。
身体には胸飾(きょうしょく)やバラモンの印である聖紐(せいちゅう)などをつけ、右上に巻いた条帛(じょうはく)の一方の端を右手にかけている。
腰には布を巻き、ライオンの頭部をあしらったサンダルをはいている。(『すぐわかる東洋の美術』p45)
「すぐわかる日本の仏教美術―彫刻・絵画・工芸・建築 仏教史に沿って解きあかす、美の秘密
」(守屋正彦著東京美術 改訂版2007)
第2章が「仏像」
紀元前334年、アレキサンダー大王が東征開始し、
インドに遥か遠いギリシャの文化が運び込まれた
その後ギリシャ文化を受け継いだパルティア人がガンダーラ地方を支配
インド北辺のガンダーラで仏像が作られはじめ、その後2世紀頃には仏像の制作はインド中部のマトゥラーを中心に展開し、一挙に仏教美術が広まった行った・・・(p9)
3~4世紀ころ菩薩像の種類も多くなりヒンドゥー教の神々と結び付き、密教的な造形(多くの手や顔を持つ超人的な姿)が現れ出した
大乗仏教の流れが東方に伝わって、
中国では5世紀ごろに、石窟寺院が作られた
中国古来の神も含めて、インド以上に多様な仏教文化が生み出された。
さまざまな仏教美術は中国文化というフィルターを通して日本に至った。
wikipedia 「仏像」の項 閲覧20160219では、 ガンダーラとマトゥーラ(パキスタン)でどちらが先に仏像制作が始まったか議論があるそうだが、 仏教美術入門おさらい篇として最適な「世界遺産で見る仏教入門 」(世界文化社 島田裕巳著)を読むと(p16-17)
タフティー・バヒーの仏教寺院の遺跡から2~4世紀のガンダーラ盛期に制作された仏像が出土しこれらは世界最古の仏像とされ、ガンダーラは仏像発祥の地として「仏像のゆりかご」とよばれる。、
アレクサンドロス大王の東方遠征に従って、そのまま西アジアに残ったギリシア人の子孫が、1世紀ごろに仏教に接すると、彼らは、タフティー・バヒーを含むガンダーラ地方で仏像を作り始めた。
また同じ頃、インド文化の色濃かったガンジス川上流域のマトゥラーにおいても、釈迦の映像制作が始まった。ほぼ同時期に始まったガンダーラ美術とインド美術における釈迦像には、それぞれの文化の特徴がみられる
ガンダーラの仏像 | マトゥーラの仏像 |
(ガンダーラ美術) | (インド美術) |
両肩を覆う通肩(つうけん)に衣をまとう | 大衣(だいい)をまとって右肩を出す=偏袒右肩 (インド独特の装束) |
頭頂部の肉馨が自然な髪束 | 肉馨は蝸牛の殻のような形で巻いた髪の束 |
彫りの深い要望、軽く波打つ頭髪、大きく波うつ襞(西洋的な特徴) ヘレニズム文化の影響を受けたギリシア神像の様な仏像 |
堂々たる体躯 赤砂岩(せきさがん)というインド特産の石で作られる |
ガンダーラの仏像 | マトゥーラの仏像 |
外部の影響により誕生 | 内部の伝統により誕生 |
西方的で厳格な面貌 | 明るく若々しい面貌 |
厚手の衣 | 薄い衣 |
写実的な人体表現 | 堂々としたい身体表現 |
仏坐像 石造 像高69cm 2世紀 マトゥラー博物館
この地方特有の黄色斑入り赤色砂岩を用い、
菩提樹の下で獅子座に座す如来の姿を現す。
商業都市マトゥーラーはジャムナー川とガンジス川が合流する地点にあたり、水路によってインドのほぼ全域と通じ、ブッダ在世時から通商路の交差点として栄えた。(p46()
必然的に多彩な宗教の行き買う宗教都市として宗教的な造形活動も盛んで、紀元前2世紀ころにさかのぼる造形技術の長い伝統を持つ(『すぐわかる東洋の美術』(p46)
この書で見た二つの仏像どちらも魅力的であった
安倍文殊院の騎獅文殊に従う優填王像を見て追記(仏教の天部)
仏伝では、 優填王(うてんおう)という、紀元前五,六世紀,釈迦在世の頃のインド,コーシャンビーの国王が 仏像の始まりとされる牛頭栴檀(ごずせんだん)の仏像を作らせたという。(『三省堂 大辞林』weblio辞書)
しかし、それは伝説で、釈迦の生きている時代にそれはないだろうという・・
この流れの果ての日本の仏教美術ということだが、日本の神像、本地仏等全くわからないので、補足の補足はこちらに続く
ここで、「ギリシアから日本へきた神々」講義by田辺勝美先生@You Tubeがあったので、こちらに続く(20160306)
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