二世紀ごろの拝蛇教徒(オフイチス。グノーシス派の一派)たちは、蛇を神とあがめていたが、それというのも蛇が万物に先んじてこの世に生まれたこと、この世界の創造者は蛇の私生の孫にすぎないと彼らが考えたからである。この蛇はライオンの頭をしたアイオンに巻きついているが、ミトラ教の信者たち(ゾロアスター教における太陽神の信者)は、このアイオンのことを、時間およびその帰結としての破局のシンボルだと考えていた
死という厳粛な事実の責任を、人類最初の男女アダムとイヴに、またうそつきの悪魔に負わせるのはやさしいが、勇気ある少数者は、何と神にまで負わるのだ。 どころで、死をめぐるプロセスのどこかに、蛇が抜きがたく関わっているということについては、大方の同意が得られるであろう。蛇は永遠に生き、おまけに悪魔の目を持っているまれな生物の一つだからである。そのため、蛇は再生を願う死者の守護神に仕立てられたのだ。
オフィス派(Ophites) - 「旧約聖書・創世記」に出てくる蛇(ギリシア語でオピス)は人間を堕落させたものではなく、至高者が人間に知識を授けるため遣わしたものと考えるので、このように呼ばれる。
■The Worship of the Serpent by John Bathurst Deane
J・キャンベルの「神話のイメージ」のディオニュソスのイメージを見るページからの続きで、同書P305
杯の中央に、翼のある蛇(左の翼は見えない)が上半身をとぐろに巻いて、半球状になっている
その下から、炎の下が燃え立っている
16人の裸像(9人が女性で、7人が男性)が皆、蛇を見つめ、起立して崇拝している、
女性のうち5人は、メディチのヴィーナスと同じ姿勢(図247)
この図は、祭儀所の内部を表しているもので、至高の展開を象徴しているものと思われる(p304)
中央の半球体は宇宙卵のてっぺんですべての人間はその中に住んでいるが、
拝蛇教という宗派の人々は、その卵の上に出ているということになる
宇宙卵を囲むようにとぐろを巻いている蛇は大地に足をつけていると同時に、展開を飛ぶ鳥ともなっている
杯の外側は4人の天使が4方向に位置している(4つの四季がある)
24本の柱がある(一日24時間)
杯の底辺にはギリシア語の銘が入っている、
それはオルペウス教の讃歌から4つ別々に引用されてたもの
「聴け、汝、遥か彼方で動いている
光り輝く球体を永遠に回している者よ・・・・、
もともと、天界と地界は
単一なるもの、宇宙卵であった・・・・」
ヘビのイメージ2通り
1.(普通の解釈)輪廻、永遠回帰、死と再生 月の満ち欠け、あるいは蛇の脱皮からのイメージと同じ
2.太陽の光のような、尽きることのない光を得ることによって、永遠にめぐりめぐるという、究極の超越のイメージ、ヨーガの目的というのはこれである
キャンベルによるヨガの話は、いまいちわからないのであるが、
宇宙卵については、こちら(モデナの山羊の足をもつミトラ教クロノス=蛇に巻かれた時間の神)で見た。
ヤコブ・ブライアントの Orphic卵(1774)
さらに
蛇足であるが
「メディチのヴィーナスと同じ姿勢」の女性5人がいるということで、
(図247)をも観てみます
ケネス・クラーク卿の「クニドスのアフロディテ」、「カピトリーノのアフロディテ」、「メディチのヴィーナス」の比較論(p277-279)
「クニドスのヴィーナス」は、これから行おうとする沐浴の儀式のことしか考えていない。
クニドスの異形、ヘレニズム時代の2つの有名な像「カピトリーノのアフロディテ」、「メディチのヴィーナス」
美術史上で「恥じらいのヴィ―ナス」と知られているものは「カピトリーノのヴィーナス」(=他人の目に自分がどう映るかを気にしている)
「メディチのヴィーナス」は右腕を修復する際に間違いを犯し、全体のリズムが崩れてしまった。
「恥じらい」という名声にふさわしいものにしようとした結果、あまりに鋭い角度で曲げられ、彫像全体の流動感がその部分で遮断されてしまっている。しかもそれだけだけでなく、すべての点で形式張っていて自然さに欠ける。この種の退屈な優雅さが時代の流行であった。
「メディチのヴィーナス」に対する称賛は「ベルヴェデーレのアポロン」に寄せられた賛辞の量に匹敵するほどだが、称賛の根拠はアポロンに比べて薄弱である。
バイロンは「メディチのヴィーナス」を『チャイルド・ハロルドの遍歴』の中で取り上げ、その一部を捧げて称賛したが、クラーク卿は、「実は、バイロンは自分の目を全然使っていなかったのであり、彼と同じ階級や気性を同じくする大半と同じく流行によって欺かれていたのである」
ケネス・マッケンジー・クラーク(英: Kenneth McKenzie Clark、1903-1983)(Wikipedia)
主著である『ザ・ヌード 裸体芸術論 理想的形態の研究』では、西洋美術史における裸体表現を「naked(はだか)」と「nude(裸体像)」という区別を通して、理想的形態についての見解を示している。
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