cathedrals カテドラル=大聖堂
酒井健
ゴシックとは何か―大聖堂の精神史
(講談社2000⇒ちくま学芸文庫2006)
/目次読書2014-06-22/一読 2008/6/3
おびただしい柱列、過剰なまでの突起や彫刻、秩序や比例を超える高みをめざしたゴシック建築、アミアン・ケルン・
シャルトルなどヨーロッパの多くの都市に今も残るこれらの教会の異様な建築様式はなぜ生まれたのか。
聖堂内部は大自然のイメージで彩られ、故郷を追われた異教徒である農民たちの信仰心をキリスト教化するのに役立つ一方、その昇高性や過剰な装飾性は国王や司教たちの権威の格好の象徴となった。
ゴシック様式を論じるだけにとどまらず、誕生から受難そして復活に至るまでを、歴史・社会・文化的な深みに降り立ち、十全に説き明かした…
第1章 ゴシックの誕生
第2章 ゴシックの受難
第3章 ゴシックの復活
ヨーロッパ文化の歴史という視点に立って、ゴシック大聖堂のなんたるかを、その本質的な面を、明示してみようと思う
ゴシック大聖堂との出会い北フランスのボーヴェ(Beauvais)の大聖堂・・初めてゴシック大聖堂を見たという実感
尋常ならざる姿、不気味な気配で威嚇した
蟹の足のような格好で伸びた幾本もの長大な石柱があまりにグロテスクだった。
北方の暗い空にそそり立つおどろおどろしい大建築物。
ゴシック大聖堂をとして我々はヨーロッパ文化を知ることができる。
逆にヨーロッパ文化の中にゴシックを置いて眺めることによりゴシックのなんたるかもわかってくる
紀元前900年ごろからケルト人が住んでいた。
紀元前50年ローマ属領ガリアになり、キウィタス(civitas)という統治制度が敷かれた.
それは、デオクレティアヌス帝(在位284~305)の時代、64から114に増え、その語も、異民族の進入を防護する石の壁のなかの中心都市を意味するものに変わり、その外の地方(農村)=バグスとの間に明瞭な区別を設けるようになった
313べbbbコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、キウィタスの半数近くにキリスト教の高位聖職者司教が配置された。
西ローマ帝国が滅びた時(476年)生き残ったのは司教が治めるキウィタスだけだだった
司教の教会堂すなわち大聖堂は、司教の座る椅子を意味するラテン語名詞cathedra(カテドラ)の派生語
表現が定着するのは大聖堂がゴシック様式に改築されていった時代
もともとは複数の建物(たとえば北礼拝堂、南礼拝堂、洗礼室)の集合体であったのが一つの建築物になるのがまた、ゴシックの時代であった
ゴシック様式が最初に登場したのは、パリ近郊のサン・ドニ修道院付属教会堂の内陣改築工事(1140年着工44年完成)においてである。
ゴシック様式が最初に大聖堂に採用されたのは、パリから約120キロ東南のサンスのサン・テチュチエンヌ大聖堂の改築工事(1140年頃着工、68年頃ほぼ完成)
第一の特徴:昇高性をアピールする先のとがったアーチ=尖頭アーチが天井に使用されている
第二の特徴:側壁に縦長の大きな窓が穿たれている。
(堂内にステンドグラスの農耕な色彩を通過した低明度の神秘的な光が大量に入ってくる)
第三の特徴:飛梁(フライング・バットレス)ト控壁バットレス)の使用
12世紀半ば、北フランスにゴシック様式の教会堂が次々と立ち始めた時、それらは「現代様式(opus moderunum)」と呼ばれていた。13世紀ドイツの年代記作者は「フランス様式」と表記している。
この様式を初めて「ゴシック様式」と呼んだのは、15~16世紀のルネサンス期イタリアの文化人であった。
彼らは、アルプス以北から伝播してきた大建築の様式を侮蔑をこめてゴートgotico)人の様式だと言い切った。
「これらは秩序などというものは一切持っておらず、いっそ混乱とか無秩序とか呼んだ方がいいようなものである。
細くて葡萄の木のようによじれた円柱に飾られたそれらの建物の入口は、
たとえいかに軽快で壁面やその他の装飾部分に、たくさんの尖塔や突起や葉状文様などをくっつけた小さな壁龕(へきがん タベルナクル)を、上へ上へ重ねるという呪わしいことをやってのけた。
またこれらの建物に、彼らはたくさんの張り出しや、破れや、小さい持ち送りや、巻蔓文様を作ったので、それらが彼らの作物の比例を壊してしまった。
」(ジョルジュ・ヴァザーリ『芸術家列伝』1550年(若桑みどり訳)
北フランスの自然 / もう一つの野生 / 大開墾運動 / 農業革命 / 開墾の影の立役者 / 農民の宗教感情 / 危うい好転 / 都市への移住 /> ノートル・ダム / 都市民の不安 / 新たな共生の原理 / 地母神崇拝 / 聖母マリアの像 / 自然の復活 / 聖母の執り成し / 森林の殿堂
天国と地獄 /右と左の聖なるもの /宗教の根源 /聖体信仰熱 /供犠(サクリファイス)の二つの解釈 /「勝利のキリスト」から「苦悩のキリスト」へ /森林の犠牲(いけにえ) /教会側の解釈 /象徴の森 /しかし芸術は象徴の彼方である /グロテスクと大地の力 /道化の祭り /教会音楽 /
パリのノウトル・ダム楽派 /パリ司教の許可 /
大聖堂はなぜ建てられたのか /国王の立場 /権威回復のために /ゴシック誕生の式典 /高位聖職者たちのメンタリティ /教会貴族 /競争心 /
階層社会 /カリスマ的権威 /物的権威 /神の権威 /二つの光 /光の似姿(イメージ) /神への還帰 /地上の汚濁でもなく天上の清浄さでもなく /ゴシック共和国 /スコラ学はゴシックに影響を与えたのか /信仰と知の調和 /トマスの弁証法 /塔の弁証法
ここまで!あとは消化不良になるので少し置きたい~2014-06-28
第一章で最もそうなのか、と思った核心的なことは以下
第一章でシュジェ(※シュジェール)について「権勢欲につかれていた人間」「教会貴族」・・ということと、パノフスキーがスコラ学がゴシック建築に影響を与えたと言っていることは間違いだ、ということについて、しっかり書かれているのだが、ここら辺は私にはまだ検討課題です・・ 「大聖堂の精神史」という記述のあり方はとてもよかった。