猫頭による猫頭のための
古代エジプトの歴史 

復習3 ローマ

エジプト Egypt
山中 一郎 (平凡社世界大百科事典)
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【グレコ・ロマン時代】

[プトレマイオス朝]

 前 323 年のアレクサンドロス大王の病没後,部将の一人プトレマイオス 1 世はエジプト太守として赴任,部将間の後継者争いの末に前 305 年エジプト王位を宣言する。王はファラオの完全な後継者としてその宮廷儀礼を踏襲,支配民族であるギリシア人固有のポリスは,第 26 王朝以来のナウクラティス,アレクサンドロス大王の建設したアレクサンドリアにプトレマイスを加えたにとどめ,前代よりの行政機構をそのまま受け継ぎ,要職にギリシア人 (およびマケドニア人) をあて,ギリシア的合理性をもって運用した。国土王有の原則はいっそう徹底し,神殿領,兵役義務の代償に軍人に与えられる軍事賦田地,高位高官に贈られる恩賜地のような下賜地といえども貢納の義務を負い,一方,王領の農民は借地人として登録され,作物の種類や播種量,播種・収穫の時期まで統制を受け,貢納賦役の義務は重く,小麦の収穫の1/3を納入した。経済活動にも国家統制の網がめぐらされ,油,塩,パピルス,織物,ビール,皮革などの生産・販売,天然炭酸ソーダ (ナトロン) 坑,鉱山,採石場での採掘,狩猟,漁労,牧畜,銀行業務など直接間接に国家の独占事業とされ,毎年生産規定を発布,価格を公定し,高い関税を輸入品に課して国内での高価格を維持した。南シリア沿岸地方の領有により,南アラビア経由のインド商品 (象牙,染料,黒檀 (こくたん),木綿,絹など) およびアラビア商品 (真珠,香料,珊瑚 (さんご) など) の仲継貿易は国庫に大きな利潤をもたらし,首都アレクサンドリアは国際都市として栄え,豪奢な宮廷生活を支えた。こうしてプトレマイオス 1 世から同 3 世までの間に,中央集権的官僚機構,統制経済および東西交易による利潤の獲得と国力の充実により,プトレマイオス王朝はヘレニズム世界最強の国家に成長し,その領土は北はフェニキア沿岸,キプロス島,小アジア沿岸,キクラデス諸島からトラキア,黒海沿岸に及び,西はキレナイカに達した。土着エジプト人の支持を確保するために旧来の神々の信仰を認め,ファラオとして祭祀を主宰,神殿を建立したが,ギリシア人とエジプト人との融合を宗教上で積極的に推進するため,メンフィスで崇拝された聖牛ハピHapiの姿をもったオシリス神にギリシアの神ハデス (プルトン) の属性を加えた新しい予言と治癒の神セラピスを創設して国家神とし,オシリスの妻イシスとその子ハルポクラテスHarpokrat^s (ホルスの一形態) と共に三柱神とした。君主崇拝も採用され,プトレマイオス 2 世以降王は生前より神として国家祭儀を受け,死後は救済神として祀られた。 2 世はまた実姉アルシノエ 2 世を王妃とし,エジプト王家に伝統的な姉弟 (兄妹) 婚を導入した。
 しかしシリアのセレウコス朝にアンティオコス 3 世が即位すると,東西交易の拠点フェニキア沿岸の占拠を狙って進軍, プトレマイオス 4 世はエジプト人を初めて徴兵してこれを撃退する (前 217,ラフィアの戦) が,5 世の在位中 (前 204‐前 180) にキプロス以外の全海外領土を喪失,ローマに援助を求めたため以後ローマの東方干渉が始まる。ラフィアの戦の勝利によるエジプト人の民族的自覚と海外領土喪失による農民への重税は,農地放棄や農民一揆を頻発させ,神官階級の特権を増大させ,国家財政はいっそう窮迫した。王位継承をめぐる王室内の対立はローマの干渉をいっそう露骨にし,ローマの将軍アントニウスと結んだクレオパトラ (7 世) は,オクタウィアヌス (後のアウグストゥス) に敗れて (アクティウムの海戦),エジプトはローマの属州となる。
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なるほど。
やっとすこし神々の関係がわかりました。2006/05/01

[ローマのエジプト支配]

 オクタウィアヌスはエジプトの戦略的・財政的重要性を認識し,騎士階級出身者を総督に任命する皇帝直属の属州としたのみならず,ファラオの後継者としてプトレマイオス王朝の統治原理を継承し,皇帝の金庫,ローマ市民の穀倉として最大限に利用し尽くすこととした。ローマ人が官僚・軍人として渡来し,ギリシア人,マケドニア人は第 2 位に転落,エジプト人の被征服者としての地位はいっそう固定した。既にプトレマイオス朝後半より土地私有の傾向が増大していたが,皇帝はこれを承認,その代償として土地私有者を強制的に国家官僚に任命した。村や町は自治体としての機能を認められ,評議会が組織されたが,徴税義務が課せられ,義務の増大以外の何ものでもなかった。ローマ帝国の窮乏化とともにエジプトに対する財政的負担はますます増大,国有地農民の逃亡が相次ぎ,荒廃した国有地は私有地に強制的に割り当てられ,大土地所有を促進した。この傾向は東・西ローマ帝国分裂 (395) 後も変わらず,穀物納付先が東ローマ (ビザンティン) 帝国の首都コンスタンティノープルに代わっただけで,大土地所有はさらに進行,地方の大領主は独自の徴税機構をもち,自己の船と船員を用いてアレクサンドリアまで運んだ。重税にあえぐ農民は後年イスラム軍を解放者として歓迎することになる。
 五賢帝時代までのローマ皇帝はファラオと同じく伝統的な神々の神殿を建立,祭祀を主宰する姿を壁面に刻ませ,カルトゥーシュ (王名枠) にヒエログリフで名前を記した。ラテン語はギリシア語とともに公用語とされたが,ローマ文化は浸透せず,アレクサンドリアを中心にギリシア文化とエジプト文化の混交が進み,エジプト固有の文化は神殿と神官の手に集中していく。 1 世紀よりキリスト教が普及し,2 世紀にはアレクサンドリアに司教が置かれ,問答教示法による教校も開設され,エジプトは新興キリスト教の一大中心地として大迫害をくぐりぬけ,教義をめぐる論争では中心的役割を演じた。 4 世紀には修道院運動もアントニウスにより始められた。 4 世紀末テオドシウス帝によるキリスト教国教化はエジプトから古来の神々を根絶し,エジプト人の国民的自覚はコプト教会に受け継がれていった。 屋形 禎亮
プトレマイオス王国  アレクサンドロス大王の友人プトレマイオスPtolemaios (プトレマイオス 1 世ソテル) が,大王の死 (前 323) 後エジプトのサトラップ (総督) として赴任し,後継者 (ディアドコイ) 争いに勝利をおさめて開いた王国。前 305 か 304‐前 30 年。その王朝をプトレマイオス朝,あるいは開祖プトレマイオスの父ラゴスLagosの名をとってラゴス朝ともいう。

[歴史]

 開祖プトレマイオス 1 世はパレスティナ,キプロス,小アジアにまで領土を拡大し,国内では行政組織を整えて国家の基礎を築き上げた。さらにプトレマイオス 2 世フィラデルフォスは, 2 次にわたるシリアとの戦いに勝利して近東方面に領土を拡大,また国内の財政制度を整備し,アレクサンドリア港の増築, ムセイオンの拡充,ナイル川と紅海とを結ぶ運河の開削などを行って父王の仕事を発展させた。しかしプトレマイオス 5 世エピファネスの時代にマケドニア,セレウコス朝シリア (シリア王国) と戦って敗れ,エーゲ海沿岸,小アジア,パレスティナ地方の領土を失った。また支配者であるマケドニア人に対して土着のエジプト人の反乱も起こった (前 184 か 183)。  続くプトレマイオス 6 世フィロメトルは,妻や兄弟との共同統治を経て単独の支配者となるが,兄弟 (のちのプトレマイオス 8 世エウエルゲテス) との対立抗争が続いた。その死後,息子がプトレマイオス 7 世ネオス・フィロパトルとして即位するが,すぐに叔父プトレマイオス 8 世に殺される。この 8 世はキュレネを治めてのちエジプトに帰り,単独支配者となった。 プトレマイオス 9 世ソテル,プトレマイオス 10 世アレクサンドロスも兄弟で王位継承の争いを演じたことで知られている。 プトレマイオス 11 世アレクサンドロスは,スラの支持によって王位に就いたがほどなく暗殺された。続くプトレマイオス 12 世は一時期追放の憂き目に遭った以外は長期にわたって王位にあった。 プトレマイオス 13 世は姉クレオパトラ7 世とともに共同統治者として国を治めたが,のち二人は王位をめぐって争いを起こし,一時姉を追放したが,おりからポンペイウス討伐のためアレクサンドリアに来ていたカエサルの介入を招いて殺された (前 47)。 プトレマイオス 14 世は前 47 年クレオパトラとの共同統治者となったが,前 44 年彼女の命令で暗殺された。彼女はカエサル,次いでアントニウスの援助によってエジプト王位を継いだが,前 30 年アクティウムの海戦でオクタウィアヌス (後のアウグストゥス) に敗れて王国はここに滅亡し,エジプトはローマ帝国の一属州となった。

[社会,文化]

 この王国ではファラオ時代に起源をもつ中央集権的な官僚組織を利用して,マケドニア人,ギリシア人が土着のエジプト人の支配にあたっていた。他のヘレニズム諸王国にみられるギリシア風のポリスはアレクサンドリアとプトレマイオス以外ほとんどみられなかった。ナイル川の定期的な増水,氾濫後に堆積する沃土を利用した農業が栄え,小麦が主要輸出品であり,王国富裕化の源であった。それゆえ諸王は増産のため,干拓,土地測量や,その管理,作物の品種改良に努めた。全国土は国王の私有地であったが一部は神殿領,植民兵保有地,王の側近貴族の私有地などとして下賜された。王料地で耕作する人々は〈王の農民geヾrgoi basilikoi〉と呼ばれ,エジプト人のほとんどを占めていた。彼らは播種から収穫にいたる全農作業を監視されたのち,毎年一定額の生産物を小作料として納めなければならなかった。こうして集められた穀物は王に莫大な富の蓄積を可能にした。農業に限らず全産業が厳重な統制下におかれ,国家による生産から販売までの独占がエジプトの特色である。とくに植物油製造部門で独占のようすが詳しく知られる。ここでは採油植物 (ゴマ,ベニバナなど) の種子の貸付け,作付け,収穫,製油,販売にいたるまで厳重な国家管理の下におかれ,採油植物の秘密栽培,油の密造などは厳禁されていた。外国産の油に対しては関税,小売税などが課され,王家の利益が守られていた。このほかパピルス,ビール,亜麻織物,製塩,ソーダ製造などの産業があった。  これらの国家統制のためには整備された官僚組織が不可欠であった。国土は約 30 の県 (ノモスnomos) を筆頭に郡 (トポスtopos),村 (コメkヾm^) に分けられ,おのおのに長官や書記をおいて住民およびその財産の掌握が行われた。王の財務長官 (ディオイケテスdioik^t^s) の下に各県,郡,村ごとに主計官もおかれ,租税をはじめ歳入・歳出に関するいっさいの事務が執り行われた。これらの重要官職はマケドニア人,ギリシア人に占められ,エジプト人は現場の作業監督やせいぜい村長や村の書記などの下級官吏になれるにすぎなかった。官僚組織が整っていたにもかかわらず,租税や他の国家収入は私的な請負業者に託されていた。官吏の徴収した税が換金されてのち請負額を下回ったときには,国家に対する保証人として彼らは不足分を支払い,上回ったときには,その余剰額を自分の懐におさめることができた。一見煩雑なこの制度は,国家が最少の出費で確実な収入を得ることができるように考え出されたものである。  文化面ではアレクサンドリアに建てられたムセイオンが,その大規模な図書館 (アレクサンドリア図書館) とともにヘレニズム時代を代表する学芸の中心となり,とくに文献学,自然科学の分野に優れた学者が輩出した。しかしギリシア・ヘレニズム文化は征服者のマケドニア人,ギリシア人に影響を与えただけで,エジプト人の間にはほとんど浸透しなかった。宗教ではプトレマイオス 1 世の創始したセラピス信仰が有名である。この神はギリシアの神々 (ゼウス,アスクレピオスなど) とエジプト土着の神々 (オシリスなど) の両方の性質を受け継いでいた。王都アレクサンドリアにはセラピス神殿 (セラペイオン) が建てられ,王家の神として崇拝された。 ⇒エジプト‖ヘレニズム
田村 孝(平凡社世界大百科事典)
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(first updated 2006/04/30) lastModified: 2006年


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