尾形希和子著(沖縄芸術大学)
2013年12月刊 (講談社選書メチエ)
/目次読書2014-08-17/
第一章 怪物的図像とイコノロジー的アプローチ
第二章 神の創造の多様性としての怪物・聖なる怪物
第三章 怪物的民族と地図
第四章 「自然の力」の具現化としての怪物
第五章 世俗世界を表す蔓草
第六章 悪徳の寓意としての怪物から辟邪としての怪物へ
第七章 古代のモティーフの継承と変容、諸教混淆
第八章 怪物のメーキング
結び 怪物的中世
第一章 の研究の方法、図像へのアプローチの仕方に続いて「教会の怪物」、を丁寧読み 2014-09-16~
10月いっぱいかかりそうです。
神の「創造」の多様性を示す怪物や「聖なるものの顕現(ヒエロファニー)」としての怪物など、ネガティブな価値をもたない怪物について述べる。
※中世の百科全書的作品の編集・・
セビーリャのイシドールス(560頃 - 636)主著『語源』、
ラバヌス・マウルス(780頃 - 856)『事物の本性』
「イシドールスがコンピュータ関連の聖人に選ばれた理由は、情報の断片を集めた彼の網羅的な著作が、今日でいうデータベースに通じると考えられたからである」(Wikipedia)
怪物が肯定的な意味で、あるいはニュートラルなものとして登場する場合
monster//ラテン語monstrum(複数monstra).の語源monere(警告する)予兆・・神の啓示は必ずしも否定的なものばかりでない
デモンストレーション←指し示す(demonstrare)
驚異的なものは自然に反しているのではなく、私たちが自然として知っているものに反している(『神の国』21-8-4
「人間と驚異的なもの(人)について(DePortenis)」(『語源』11巻)・・怪物的民族、ヒュドラ、キマイラ。ミノタウロス、オノケンタウロス含む
「動物について」(『語源』12巻)ユニコーン、グリフォン含む
分類(簡潔かつ有効な分類 p62)
『物事の本生について(De Rerum Nsturis』第8巻「動物について」
ユニコーン、グリフォン、怪物的民族とキノケファルス、サティロス含む
1.前兆として生まれるものには人間の身体と様々な動物の身体が組み合わさったようなものや、人間から生まれた蛇などがあるが、彼らは警告としての用を果たすとすぐに死んでしまう
2.身体のサイズが度を超えて通常より多きものや、反対にピュグマイオイのようにきわめて小さいもの
3.身体の部分の欠落、あるいは過剰
4.ミノタウロスのように身体の一部が別の動物であるもの、あるいは全身が別の種に変化しているもの
5.身体の部分が通常と異なる場所にあるもの
6.生まれた時から歯や髭や白髪を持つもの
7.アンドロギュヌスはヘルマフロディト(両性具有)のように異なる姓を同時に有するもの
本書では、ロマネスク聖堂に描かれる怪物の果たす役割を中心に分類する
ここで休憩検索・・・・
モモ先生語り口が柔らかくていいですね・・
3日目以降は、世界を「飾る」作業です。7世紀のセビリア司教イシドルスは、ギリシア語で「宇宙」を意味する「κόσμος(コスモス)」の語は、「飾る」という意味をもつと指摘しています。おでかけ前の娘さんが鏡の前で首飾りを重ねるように、「世界」に、草木(3日目)、太陽と月や星(4日目)、海の生き物と鳥(5日目)、陸上の動物と人間(6日目)といった「飾り」が次々に添えられてゆきます。(byモモ先生)
『創世記』 魚類、鳥類、陸生の獣、固有名が出てくるのは蛇くらいのもの
アレオピンドゥスが不明で検索したところ、 辻佐保子さんのPDF〔舗床モザイクをめぐる試論〕のみであった。ローマの執政官とあり。
⇒(第5章で)ケンタウルスとセイレーンが
木を持っていることが
重要
動物に名前をつけるアダム⇒モモ先生のイタリア古寺巡礼のページで見ます ←キリスト教と象徴
ホーヘンブルク尼僧院長ランスベルグのヘラート『逸楽の園』創造主を取り囲む動物(12世紀)
マタイの系図を表すイエッセの樹は、ホーヘンベルクの尼僧院長、ヘラート・フォン・ランツベルグによりデザインされた「ホルトゥス・デリキアルムHortus Deliciarum (悦楽の園)」に出ているものとして知られるものである。(不幸にして、オリジナルは1870年の火事で焼けてしまい、その内容がわかるのは複写や解説書による)
(p67)『創世記』にはアダムとイブが原罪を犯す前、すべて命あるものは青草を食んでいた(1:30)とある。弱肉強食の争いのない平和な楽園(パラダイス)
(p67)「清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて」(『創世記』7:8) 個別名は「鴉(からす)」「鳩」のみだが、
ベアトゥスの黙示録注解書などの挿絵では、グリフォンやドラゴンなどの怪物の姿がしばしば描かれる(⇒図イタリア古寺巡礼)
[清くない動物]も?
(p67)楽園のなかには頻繁に描かれるユニコーンは方舟には乗らなかったという伝説がある。ユニコーンはプライドの高さゆえに他の動物とともに箱舟に乗らなかったという
第一巻 怪物的人間
(あるいは人間の身体の一部を有する怪物)
第二巻 様々な野獣
ライオン、ゾウ、トラ、カバ等の他に、、キマイラ、ケルベロス、海馬(ヒッポカンポス ここでは、二本足の馬)等を含む
第三巻 蛇
ヒュドラ、アスプ(前後に頭を持つ蛇)等を含む
(p68)ヘビへの関心の度合いは並々ならぬものがある(⇒第7章へ)
中世の人々にとっては、怪物も象のように実在はするがめったに目にすることのできない不思議な動物と区別されるものではなかったのだろう
(p68) 怪物は一般的に「罪」や「悪徳」と結び付けられやすかった。しかし、イシドールスが言うように、「驚異的なもの(portentis)」は、神や自然そのものに反しているのではなく、想定外の自然の顕現であり、それは人々の心に恐れを生じさえもするが、同時に「喜び」をも喚起する「驚異(ワンダー)」なのである
ネガティブな価値を持たない⇒?→「ネガティブでない価値」を持つ、に。
怪物とは、「同一性」の中の「異者性」である。
ぞっとっするような「異者」は、自己や社会や宇宙の安全性や秩序を揺さぶり脅かす、パラドックス的存在
(そのような存在は)
一方の極では「悪魔」であるが、もう一方の極では、聖なる絶対的な「他者」である「神」。
それゆえに怪物は「神」や「聖なる他者」を表す手段となる。
「異者性」とは初めて聞く言葉であるが・・自分ではない「他者」というだけでなく、「異なる者」という感じ?
(p69) パラドックスが「神聖」なものを表すことは、5世紀のビザンティンの神学者偽ディオニシウスの説く「否定神学」に基づいても説明される
キリスト教ネオプラトニズムの流れを汲むもの
キリスト教以前の哲学的「否定」の伝統
特に8~14世紀に強い影響力
※否定神学=Wikipedia
(p69)デイヴィット・ウィリアムズ『奇形的言説』:偽ディオニシウスに依拠し、神学的な見地から怪物的、奇形的図像を考察
多様の源泉たる「一者」
存在を超えつつ存在の原因であり、宇宙にあまねく現存すると同時に完全に超越的である神は、すなわちパラドックスである。
それゆえに、偽ディオニシウスによれば、神の表象として最もふさわしいのは、最も非日常的で、不条理で、怪物的なイメージ
神は、「~である」とは理解され得ず、「~でない」という否定を通してしか知りえない。
中世以前には、「怪物的なもの」は予兆(前兆)や魔術的記号として捉えられていた。 中世には、「本質」や「形体」の秘密を探求するための象徴的道具となった。
怪物的な「表記記号(サイン)」=図像=「~でない」ものを表す
「図像」と「意味内容」の一対一対応の関係を揺り動かし、二者のギャップを露呈する。
中世の『怪物的なもの」あるいは『奇形的なもの』は装飾やレトリックや無味乾燥な教訓などではなく、精神的哲学的探求にとって補完的なオールタナティブな伝達手段であった(byウィリアムズ)
※Alternative(オルタナティヴ)=「もう1つの選択、代わりとなる、異質な、型にはまらない」神聖なるものが怪物的・奇形的な形で表される例にはどのようなものがあるだろうか。ウィリアムズが挙げる数少ない例が三面像(三頭像)
(p70)地獄の番犬ケルベロスと同様に過去・現在・未来を表す三つの頭を持ち永遠の時間を見通すという意味で、三面像は[賢明]の寓意としても使われる。過去・現在・未来が同時に存在するものとして示す三面像は、線的な時間の流れという合理性を超えた存在である
サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ聖堂(13世紀 San Giovanni in Laterano) it.Wikipediaローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つの
モデナ大聖堂の正面の中央扉口のヤヌス像
(p71の図)上は回廊装飾とあるが 、下の部分で、外(中庭)から見たもののようだ。そして、確かに帽子を被っていますね!
"Latran intérieur". Con licenza CC BY-SA 3.0 tramite Wikimedia Commons.
三面像の一種とみなして差し支えないだろというのは、初見で、よくわからないので、もう少し、イメージ事典を参照してこちらへ〔項目としては、3、あるいは、三つ組、双頭の鷲も・・) ・・(イメージ事典に、その記入はない。)
ダンテ『神曲 地獄篇』・ルシファー・・三つの口で罪人をむさぼる姿
こちらのサン・ピエトロ聖堂は「ロミオとジュリエット(1968)」のロケ地として有名な場所でもありました。モデナ大聖堂についてピックアップしたい。
https://italiashio.exblog.jp/16812882
※https://it.wikipedia.org/wiki/Chiesa_di_San_Pietro_(Tuscania)
(P77) 中世において強い影響を及ぼした数のシンボリズム 3,4,7,12といった数字のシンボリズムが頻繁につかわれた
"Tetramorph meteora" by Unknown - https://www.nsad.ru/index.php?issue=48§ion=10019&article=1062. Licensed under Public domain via Wikimedia Commons.
(p78) テトラモルフは、フェニキアのバアル神の偶像に基づくと言われる(by Jaqueline Leclercq-Marx ※(2))
バアル神の像は、黄道十二宮の、夏至、冬至、春分、秋分に対応する星座と、
宇宙を構成する四要素を表す四つの顔を持っていた。
四という数字は、天上世界をあらわす三に対して、地上世界を表す。
エジプトの神々やバビロニアの占星術のデーカンが動物の頭部を持つ姿であらわされていたように、バアル神の四つの顔も動物のそれであった。 ユダヤ教や初期キリスト教のグノーシス思想の中にも見られる半人半獣、
あるいは獣の姿の超自然的存在の概念は、神人同形主義(アントロポモルフィズム)を本質とするキリスト教の天使や聖人などの表象の中にすら受け継がれた。
"CLUNY-Coffret Christ 1" by Anonymous - Marsyas 18:37, 6 March 2006 (UTC). Licensed under CC BY 2.5 via Wikimedia Commons.
(p79)セラフィムの図像は、中世に記憶術に利用されている。
記憶術の道具として図像(ダイヤグラム)を用いることは中世には頻繁に行われていた。
ダイヤグラムは車輪や階梯の形を取ることもあるが、何より樹木の形態を利用するものが多い。
樹木には美徳の木、悪徳の木の他、13世紀の神学者ボナヴェントゥ―ラが表した著作に基づく生命の樹
12世紀の神学者フィオーレのヨアキム(1132-1202)が好んで使った歴史や系譜を表す樹形図
カゼンティーノ地方、スティア教区聖堂のアプシスの柱頭に刻まれたケルビムやセラフィムは聖杯と対をなす。
聖体拝礼の典礼に結びつくものとして彫られたと推測できるが、
高度の神学的なプログラムは農民たちが正しく理解していなかった可能性は大きい。
そもそも偽ディオニシウス・アレオパギタが著した『天上位階論』の中の天使の九階級の区別は
あまり関心を呼ばなかったようである。
(p83) セラフィムもケルビムももとは人間の姿からはかけ離れた聖獣のようなものだったと考えるべき。それが人間的な様相を帯びるようになったことにも、西洋に特徴的なアントロポモルフィズムが関係していたかもしれない。
(p85)ジョルジョ・アガンベン(1942-)が紹介するアンブローシアーナ図書館蔵13世紀ヘブライ語聖書・・レヴィアタンやビビモットの肉のご馳走を待つ義人(動物の頭を持つ)
動物と人間の境界の無い世界を暗示、メシアの世界が現世を超えた合理性の彼方にあることを示す。
なぜならば、
「怪物的なもの」は、理解可能なものを再現し提出((re)presentare)するほかに、合理性の向こうにあるもの、あるいは目に見えないものを「予兆」し、「指し示す(demonstare)」ものだから
ユニコーンもまた両義的な怪物
メトロポリタン美術館の≪一角獣狩り≫のタペストリやクリュニー美術館の≪貴婦人と一角獣≫・・「想像上の動物」
(写真のf.日本での展示土産)
(p88)動物や植物・鉱物の性質をキリスト教に神学・道徳に照らし合わせて解釈する『フィシオログス』は西洋思想に大きな影響を与えた。
「どうしたらこれを捕まえられるか。美しく装った生粋の処女に行く手を阻ませるのだ」
・・・古代インドの一角仙人の伝説が流れこんだ。女性による誘惑がキリスト教的に解釈されたのであろう・・処女によってのみ御される一角獣は「貞潔」のシンボルである
(p90)処女の膝(子宮)に飛び込むユニコーン=マリアの体内に宿ったキリスト
unicornis(一角の)⇒unigenitus((神のひとり子)
角は陽根のシンボル、同時に、中に液体を入れる容器ともなることから女性原理を表す・・
両性具有性=「合一の象徴」として聖性につながる
(p91)犀のようない本だけの角というのは、左右ペアに生える角とは比べ物にならないぐらい、想像力を刺激すると中野美代子は言っている。 麒麟をはじめ中国の聖獣には1本の角を持つものが多い。
(p91)英語のvirtue:「美徳」という意味のほか、薬などの「効能」も示す
蛇が毒を吐いた湖の中で角で十字を切ると、毒は消えうせる
紀元前4世紀ペルシア王の侍医のギリシャのクテシアスが、ユニコーンの角で作った杯の解毒作用について書いた・・医者の家系や薬局などの紋章に一角獣が使われる理由
領主たちも紋章に・・
治水はルネッサンスの領主にとって大切な事業だったから。
(p88)ex.Duke of Ferrara, Modena and Reggioフェッラーラの君主ボルソ・デステのインプレーザ(図像と銘からなる個人の表象)として描かせた
(p92図)「パラドゥーロと一角獣」(『ボルゾ・デステの聖書』
:モデナ、エステンセ図書館蔵 1455-1461)
こちらの一角獣カラー図像こちらへ
ようやく引用中・・・
(p93)「怪物的形体」が聖なるものを表し得るのは、「記憶術の系物」をその頂点とするような「アレゴリー」として理解されるからではなく、そのシンボルとしての機能に基づいていた。しかしスコラ哲学に代表されるより合理的で弁証法的な方法が優勢になってくるにつれ、「怪物」や「奇形的なもの」「グロテスク」のもつ高いシンボル性は陰りを帯びてしまった。ゴシック聖堂扉口の人像柱(スタテュ・コロンヌ)の発展のなかに見られるように、ゴシック美術は、再び人間形体造形の道を歩み始めた。
・・・
12世紀後半「ゴシック美術の開花とともに始まるリアリスムの兆候」(馬場)がゴシックのグロテスクを生む基盤を作った・・・笑いや滑稽に満ちているが、そこにはもはや「聖性」の存在する余地は残されていないかに見える(バルチンのグロテスク論)
(p94)神や神聖なものを人間の姿であらわしてきた西洋古典の伝統から逸脱した方法。単純な模倣(ミメーシス)やそれに伴う単純な現実の表象とは異なる
偽ディオニシウス:神の領域には「否定」の方がより適当。目に見えないもの(聖なるもの、パラドックス)は「似ていない」形体を通した表示の方が正当性がある。
否定神学 Wikipedia
神は人間に思惟しうるいかなる概念にも当てはまらない、すなわち一切の述語を超えたものであるとして、「神は~でない」と否定表現でのみ神を語ろうと試みる
。
”神や神聖なものを人間の姿であらわしてきた西洋古典の伝統から逸脱"する原因
”・・・目に見えないもの(聖なるもの)は「似ていない」形体を通した表示の方が正当性がある”・・・・!?・・
このあたり、「正当性」?!不明・・動物=怪物の誕生はバルトルシャイティスの分析
がどうしても面白いのだが、「聖なるもの」の表現であること・・・・『教会の怪物たち』を読むページその3へ
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