ハスと日本
草津市立水生植物公園での旧展示(2001)
日本唐草年表
「日本唐草年表」(伊藤俊治Tosiharu Ito『唐草抄』p165-171)星雲社牛若丸の本 2005.12刊)では、飛鳥時代から記述されている。以下、引用。
縄文時代
唐草はシルクロードを経て日本へ伝えられ独自の展開を遂げますが、その展開に縄文時代以来培われてきた民族固有の創造の歴史が大きな影を落としています
縄文時代においては曲線と直線により連続渦巻文、波文、流水文、蕨手文が土器にほどこされましたが、こうした独特の造形感覚も日本の唐草の成立に影響を与えています。
ここで挙げられている図は、火焔型土器と渦巻文土器。
※縄文時代:
約1万6000年前から約2300年前
縄文土器(wikipedia 閲覧20160806)
日本における唐草文様の最古の遺品は、中国の六朝時代(3~6世紀)の文化が朝鮮半島を経て日本に伝えられた古墳時代(3~世紀)の応神天皇陵から出土しています。
※応神天皇陵古墳 (wikipedia ):羽曳野市応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)こんだごびょうやまこふん
※ 六朝時代(中国222年 - 589年)
こちらの歌舞伎サイトでは、伊藤さんの著作を
参考にしたと思われる記述があるが、これについては、他の文献で確認していないので、のちほど
・・
なお、2016年5月12日づけで、奈良県吉野郡下市町 岡峯古墳で「日本最古の唐草文様の環頭太刀を出土」という記事がある。
・・6世紀後半(古墳時代後期)の素環頭柄黒漆太刀の環頭部に象嵌された唐草文様
金銅浮彫の鞍や金銅双鳳文杏葉ぎょうようなどに見られますが、これらの馬具や武具に記された唐草は龍文、鳥獣文、魚文、双獣文、双鳳文など動物系の文様で、北方色の濃い文化の流れを示しています。
もう一つの流れとして古墳時代の馬具などに見られる西方的なアカンサス唐草もあり、これらは五世紀ごろの日本と大陸の交通の結果もたらされたものと考えられます。
縄文のエネルギー
唐草はシルクロードを経て日本に伝えられ、独自の展開を遂げるが、その変容に縄文時代以来培われてきた民族固有の創造の歴史が大きな影を落としている(p106)
日本で最も古く文様らしきものが現れるのは縄文時代で、 最古の土器は煮炊き用の深鉢基本であるという。
形態としての文様モチーフは限定され、渦、円、平行線、車線、山形、格子などの幾何学的文様中心(p106)
縄文時代の初期の文様は、
形態としての文様モチーフは限定され、渦、円、平行線、斜線、山形、格子などの幾何学的文様中心(p106)
基本
隆線文:土器の口縁部に粘土紐を張りつけた
爪形文:人の爪やへらでひっかいた
撚糸文(多縄文):撚糸の網目を土器に押しつける
(上記の文様を基本にした)変形装飾
連続的な山形、楕円、格子目を器面に残す押型文、貝殻文
縄文時代の中期の文様は、
連続装飾文様が施されるようになった(p107)
火焔土器:口縁部の隆起したわきあがるような形状
多重渦巻文:大胆な渦巻をいくつも重ね合わせてゆく
Jōmon pottery in the Tokyo National Museum深鉢形土器
縄文時代(中期)
前3000-前2000年
wikimediaで,縄文中期の土器の同様な画像を検索してみました。
「紀元前4000〜8000年頃(縄文時代初期)、西布施の遺跡からは、「押型文土器」が出土。
早月上野遺跡では、国内最大規模の縄文中期の環状集落が見つかっている。」
富山県魚津市(wikipedia 閲覧20160913)
縄文時代の後期の文様は、(p107)
磨消縄文:縄文を施した部分と無文を対比させる
縄文と一口にいっても地域や時代によって大きな違いがあり、それらの総体は原日本人の圧倒的な文様への欲望を感じさせて興味深い。唐草もこのような縄文の感覚を地にして日本で受容されたといえるだろう。(p107)
古墳時代
古墳時代(3世紀~6世紀)
日本最古の唐草
応神天皇陵出土
馬具や武具:金銅透彫の鞍や金銅双鳳文杏葉などに見られる動物系の唐草(北方色が強い文化の流れ)
しかし、古墳時代の馬具などに見られる西方的なアカンサス唐草の流れもある
飛鳥時代
飛鳥(500年代中期~710)
日本に仏教文化が移入されてゆくのは六世紀半ば
飛鳥時代には仏教伝来とともに唐草が流れ込む
その代表的なものは北魏系仏像の法隆寺金堂釈迦三尊。その後輩のアカンサスやパルメットは雲崗石窟の文様を模倣したものといわれる。
飛鳥時代には古墳時代の二つの流れが合流し、日本ではパルメットは忍冬唐草や蓮華唐草と呼ばれるようになった。
忍冬唐草(日本 飛鳥時代)
宝相華唐草(日本 飛鳥時代)(p108)
もう一つの流れとして朝鮮からの影響の強い唐草の移入がある。
当時の高句麗(北方)と百済(中国系)から、
ギリシャ発生の植物文様ではなく仏教の影響下に数種の発生源が合成され、融合して伝えられたものである。(p109)
その典型が玉虫厨子金堂透彫金具(蔓唐草で花や葉はない)
法隆寺の金堂四天王像冠縁(中国の雲文唐草の流れをくむ)
蔓唐草(飛鳥時代) (p109)
奈良時代
奈良時代(7世紀~8世紀)
7世紀後半には従来の唐草形式の固さを逃れ柔らかみが取れ、のびやかで抒情性が豊かになってゆく
唐文化の流入と唐草
法隆寺夢殿救世観音の宝冠は中央に四花連珠円文を置き、周りは唐草で埋めつくされ、その流麗さや軽妙さは中国の雲文などには見られないものだ。
そこには西方的な香りがあり、ササン朝ペルシャの意匠の名残りが感じられる。
救世観音の光背や円帯には龍唐草状の形が見られるが、そこでも龍の動物的な趣は極力除かれている。(p110)
法隆寺の忍冬唐草
飛鳥時代の朝鮮半島を経由しての大陸文化の移入から脱却し、唐との直接交流が行われたため今まで以上に唐文化の栄養を受けるようになった。
唐時代に流行した唐花唐草は重厚な花文様で、仏教思想を象徴するものであったが、奈良時代にはまずこの唐花が浸透してゆく。
正倉院の宝物である、密陀彩絵忍冬鳳形文小櫃や橘夫人念持仏と厨子などにその典型を見ることができるだろう。(p111)
唐文化がインドを始めササン朝ペルシャやビザンチン文化との密接な交流により生み出された世界的広がりをもつものだったため、唐草は茎を中心には、花、実が添えられ、鳥獣も加わり、多彩なモチーフが集まり、壮麗豊潤なものとなってゆくのである。
東大寺の宝草華唐草
宝草華唐草 日本、奈良時代(p111)
鳳凰のゆくえ
中国の瑞鳥である鳳凰は、日本では飛鳥時代から盛んに使われ、法隆寺玉虫厨子須弥座背面の「日輪図と仙人図」では、巨大な鳳凰の上に仙人が乗り疾走している。鳳凰の翼や尾や脚は流線状に延びて雲や水の流れと一体化し、速度と運動を表す。このように鳳凰の体の末端は唐草状に表現されることが多い。
鳳凰円:鳳凰を円形に構成
例:正倉院「鳳凰葛形裁文」
桐竹鳳凰文:鳳凰は桐林に棲み竹の実を食べる
鳳凰と桐唐草文の組み合わせ:天皇専用の有職文
例:熱田神宮の天照大神の神服の文様
正倉院の文様で特筆すべきは鳳凰や咋鳥といったペルシャ起源のもの
花喰鳥の和様化
花喰鳥の祖形:ササン朝ペルシャで王侯身分を表す綬帯というリボンや神聖なものとみなされた真珠の首飾りなどを鳥(聖鳥・瑞鳥)がくわえている
→中国 咋鳥文・含綬鳥文→中国独自の花喰鳥文様として完成
日本の正倉院の花喰鳥文様鳥の種類:オウム、鳳凰、鵞鳥、尾長鳥、蔓唐草など
口にくわえるもの:綬帯、瓔珞(中国の傘の縁飾り)、宝相華、枝、草にまで広がっている
→平安時代に変容、鶴が松をくわえる松喰い鳥に変貌(p115)
以下は、平安時代(794~1192)、鎌倉時代(1192~1333)、室町桃山(1333~1603)、江戸(1603~1867)、そして、現代の資生堂唐草まで、続いてゆくのだが、今はここまでで・・・ (20160913)
唐草は日本で独特の展開を遂げ、やがて日本的な感情を表すようになり、日本の記憶を伝える重要な伝達手段となってゆく。(p118)
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