唐草図鑑
聖樹聖獣文様

ロマネスクの美術

エミール・マールを読む

 エミール・マールを読む:『ロマネスクの図像学』予習ページの続きで、図版を見ます・・ 

図像学

 まず、カバーが「《キリストの呪縛》の中のユダの接吻」とあるのはよいのですが(⇒Judas_Iscariot.html)、表紙の図(下の図)が「幻想の怪物たち、ガナゴビの床モザイク」とあるのが、私にはモザイクに見えず、何か勘違いあるのか、・・・・
ちょっと見てみます・・ 

 やっぱり勘違いで、表紙というのはカバーの下のことのようです。・・が、図書館の装丁(!?(笑))で、しっかり、透明カバーで封じ込められていて。見えません。
開き始めの頁=表紙(という認識)、でしたが、本の各部の名称では、扉でした・・

http://fr.wikipedia.org/wiki/Abbaye_Notre-Dame_de_Ganagobie
Notre-Dame de Ganagobie ガナゴビのノートルダム教会 (ベネディクト修道院): プロヴァンス地方ですね・・

Ganagobie 805
ガナゴビのモザイクというと、こちらであろう・・
確かにオリエンタルで、「 幻想の怪物たち」、というのもよいが、
・・・

ガナゴビのノートルダム教会 https://mbmosaique.wordpress.com/tag/eglise/
こちらのLe Livre, version 2 - Monastère de Ganagobieというイメージは魅力的であった・・ http://www.pascal-duvet-photographie.com/2012/09/ 

序言

「序章」(p10)キリスト教の図像はオリエントで生まれ、そのままの形でフランスに入ってきた

30年前はキリスト教美術はローマで生まれたと信じられていた

キリスト教美術はギリシア的才能とシリア的想像力の二重の働きによって生み出された。
聖なるテキストについて瞑想しつつ福音書の諸場面を図像化したのはわが国の芸術家たちではない。

十二世紀のフランスの中にだけ閉じこもっている芸術史家は、彼が解明しようと望む芸術作品について、何一つ理解に達することはできないだろう 。

芸術史家は絶えず起源にまでさかのぼり、我が国(フランス)の教会の多くの芸術作品のモデルとなったものを、エジプトやシリアやカッパドキアに探し求めなければならない。

モニュメンタルな大彫刻が誕生したのが十一世紀の南西フランスにおいてであったことはまず疑いない。(p10)
この地域ののクリュニー系の諸修道院がおそらくはその揺籃となった。

クリュニ―の修道士たちこそが彫刻の真の伝播者であったことは明らかと思われる。

北フランスにおいて初めて大彫刻が出現したのは、シュジェール修道院長時代のサンドニ大修道院においてであった。彫刻はそっから四方へと伝播していったのであった。
たしかにサン・ドニはクリュニーには属していないl。しかし、クリュニー系の修道院に装飾を施した南フランスの彫刻家たちを、彼のもとの呼び集めたのであった。(p11)

オータン、アルル、アングレームなどの大聖堂は修道院教会と同じく美しく装飾されているが、それはこれらの大聖堂がクリュニー系修道院によって既に彫刻が持ち込まれていた地域く建てられたからなのである。(p11)

十一世紀によみがえった彫刻は、観想の最良の補助手段として、聖ユーグや尊者ピエールらのクリュニー大修道院長によって取り上げられることになった。彼らは芸術というものの力を信じていた。聖ベルナールが彼の率いるシトー協会からあらゆる装飾を剥ぎ取ってしまった時も、尊者ピエールは中東陽刻を刻ませタンパンを彫らせていたのである。芸術に対する愛はクリュニーの数ある偉大さの一つであった。

聖ベルナールのような清貧に徹するには、驚嘆すべき内面的な豊かさが必要であった。だが、弱く貧しい信者は助けを求めたのである。信仰と希望に満たされた浮き彫り彫刻や中東彫刻によって、これまで何世紀もの間、いったいどれだけ多くの人が感動し支えられ慰められてきたであろう。

クリュニーの廃墟は今もなお、あの壮大なるローマの廃墟のような荘厳さを保ったまま眠っている。

信仰と希望に満たされた浮き彫り彫刻や中東彫刻によって、これまで何世紀もの間、いったいどれだけ多くの人が感動し支えられ慰められてきたであろう。
修道院回廊の光の中で、またロマネスクの教会の薄暗外の中で、石に刻まれた古い物語を読み解きながら私自身そのことを強くく感じていたのであった。(p12)

 →important!

クリュニー大修道院の娘修道院:トゥルーズのラ・ドラード、モワサック→’伝播)ボーリュー、カレナック、スイヤック
サン・ジル教会(南フランスで最も壮麗に驚異愛称面を彫刻で飾っている)、オーヴェルニュ地方のモザ、サントサン・トゥロープ教会、ブルゴーニュ地方のヴェズレー、シャルリュー、ナンテュア、ヴィジューユ、スーヴィニー、サン・ソーヴ―ル・ド・ヌヴェール、サン・ブノア・シュル・ロアール

第1章 モニュメンタルな大彫刻の誕生と写本群の影響

Ⅰ.古代世界の末期に彫刻は消滅した
 オリエント芸術の勝利
 写本挿絵の影響のもとに、彫刻は十一世紀末の南フランスに再び出現する

Ⅱ.スペインのベアトゥスによる『黙示録』 の写本挿絵
 フランスとスペインの関係
 モワサックのタンパンはベアトゥスの『黙示録』写本挿絵の模倣である
 ベアトゥスの『黙示録』写本挿絵と発想元としたモアサックの修道院回廊の柱頭彫刻
 ベアトゥスの『黙示録』はサン・ブノア・シュル・ロアール、ラ・ランド・キュブザック、ポアティエのサン・ティレールでも模倣された

Ⅲ.モアサック芸術における他の写本挿絵の影響
 スイヤックの中央柱とリモージュのサン・マルシアルの聖書
 モアサックの「悪しき金持ち」と諸写本

Ⅳ.諸写本挿絵とオーヴェルニュの柱頭彫刻
 クレルモン及びロアイアの柱頭彫刻
 ノートルダム・デュ・ポールのタンパン

Ⅴ.諸写本挿絵とローヌ川流域の芸術
 ヴァランスのタンパン
 アルルとニームの浮彫彫刻
 サン・ジルの受難図とオーセールの南フランス系写本

Ⅵ.壁画とブルゴーニュ彫刻の関係  
 シュルリューの扉口とラヴォデューの壁画
 アンズィ・ル・デュックの扉口
 ヴェズレ―の扉口と写本挿絵

Ⅶ.外国からの借用例
 リポールの浮彫は『ファルファ聖書』の模倣である

Ⅷ.写本挿絵から借りられた装飾的モチーフ
 ライオンの背中の上に立つ柱
 がん木刳り形と銃眼模様雷文
 束ね柱
 タンパンの形態

Ⅸ.写本挿絵の模倣ということが十二世紀彫刻のいくつかの性格を説明する

第1章 モニュメンタルナ大彫刻の誕生と写本群の影響

第1章の図版・・・38
翻訳者追加の教会の全景写真他の図版は・・以下の6
「モアサックの修道院教会・回廊」(2図)(→いままで見たモアサック参照)
「サン・ブノア・シュル・ロアールの修道院教会・ポーチの柱頭」(2図)
「リポールの修道院の扉口」、 「アヴァロンのサン・ラザール教会の扉口のねじれ柱」

図版1~18 Saint-Benoit-sur-Loire.html、
図版19~29 Notre-Dame_du_Port.html、
図版30・31、36~38 Santa_Maria_de_Ripoll.html
図版32~35 Abbaye_de_Charlieu.html、
トゥールーズのオーギュスタン美術館(円柱5世紀)

F08.N.-D. du Port.0112
(再掲)第1章 図23 ノートルダム・デユ・ポールの扉口

*http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/eurail/

第2章 十二世紀の図像の複合性
―そのヘレニズム的、シリア的、ビザンティン的起源

Ⅰ.十二世紀の図像は写本の挿絵によって説明される

Ⅱ.初期の時代の二つの図像
ヘレニズム的図像
カタコンベの芸術
ヘレニズム的キリスト教芸術におけるギリシア精神
キリストの類型

Ⅲ.シリア的図像
エルサレムのモザイクとモンツァの香油瓶
写本挿絵と壁画におけるシリアの影響
シリア的図像の性格
民族的特徴
巡礼の記憶
神学的偉大さ
混合的作品

Ⅳ.「受胎告知」のヘレニズム型とシリア型
その両方がフランス芸術の中に見出される
「御訪問」の二つの型
「キリスト降誕」の二つの型
「マギの礼拝」の二つの型
「マギの旅」とそのオリエント起源
「イエス・キリストの洗礼」の二つの型
「エルサレム入場」の二つの型
「弟子の足を洗う」の二つの型
履物を脱ぐ使徒たち
「磔刑」の二つの型
二つの型の融合
十字架上の死せるキリスト
「墓における聖女たち」
ヘレニズム芸術とシリア芸術における墓の形
「昇天」の二つの型

Ⅴ.ビザンティンの図像とその影響
「キリストの変容」
ゲッセマネの園での「イエスの就縛」※
「黄泉へ下る」

第2章 十二世紀の図像の複合性
―そのヘレニズム的、シリア的、ビザンティン的起源

第2章の図版・・・56
翻訳者追加の図版は・・以下の3
サン・ガブリエル教会の西正面
磔刑のステンドグラス、ポアティの大聖堂
サンタ・サビーナ教会の木製扉、ローマ

図版39・40(サン・セルナン聖堂)Saint-Sernin.html、
図版41~57 (ラテラノ)vatican.html、
図版58~94 (サンタ・サビーナ)Santa_Sabina.html、
ラヴェンナ ravenna.html

第2章  図47 石棺彫刻(ラテラノ美術館)
図49 聖遺物箱の蓋・図49 七宝細工の十字架(サンクタ・サンクトールムの宝物室、ヴァチカン)
図50 ヴェズレーのナルテックスの南扉口
図51 石棺彫刻(ラテラノ美術館)


再掲 図47 マギの礼拝、石棺彫刻、ラテラノ美術館

「マギの礼拝が「降誕」から分離していないので間違いなく4世紀前半のもの」
この二つがはっきり区別されるようになったのは354年になってから。
出産の後ににこやかに座っている聖母を目にして、他の女のように苦しみながら出産したのでないことを我々は理解するのである。(P100 )


再掲・図52 モンツァの香油瓶

図52「マギの礼拝」モンツァの香油瓶
マギたちの衣装はマント、ズボン、フリギア帽(純粋なヘレニズム型)(p104)

図53 モアサックのポーチ
図54 ブールジュの大聖堂の北扉口
図55 ヴィック(アンドル県)の教会
図56 眠るマギと天使:オータンの柱頭
図57 マギと礼拝、眠るマギと天使、ナジアンゾスの聖グレゴリウスの写本挿絵(パリ国立図書館)

キリスト教の歴史における大事件:
326年の「聖墳墓」と「真の十字架の発見」
→ただちに、コンスタンティヌスがゴルゴダの丘に壮大な記念建造群を建設させた。(円形教会ロトンダ)
「十字架はこの時から芸術に取り入れられた」(p88)
(600年頃の「モンツァの香油瓶」に刻まれている福音書の諸場面が、パレスティナのモザイクを再現している)
「マギの礼拝」がベツレヘム教会の正面を飾っていた。
「降誕」の場面は地下再室として用いられた洞窟を飾っていたらしい。(最初のシリア(パレスティナ)芸術、記念碑的芸術)

「降誕」
オリエント芸術では、すでにみたように、「降誕」は極度に複雑に表現されていた。
その開かれた洞窟には幼子が2度も現れる。楣桶に横たわる幼子と、産婆たちに洗われる幼子である。
その一方でマギたちが逆の方向に姿を現している。
このようないくつもの区画を持つ画面はひどく気を散らせるものである。
いつもは大変偉大であるオリエントの芸術も、ここでは低俗であり、まとまりもなく、まるで子どもじみている。それゆえ、すでに引き合いに出したヴェズレーの浮彫をのぞいて、フランスではこの寄せ集め的構図は決して模倣されることはなかった。
『ロマネスクの図像学』上巻第3章p169

 追記;キリスト教美術の主題から、別に
「降誕」(マギの礼拝、東方三博士の礼拝)関係をまとめてみなおすことにしたい・・(20181202 ロマネスクに関係なく、通史的に(ボッティチェッリ中心)は終えた)

オリエントを分け合っていた二つの芸術の流派
シリア芸術とヘレニズム芸術を分かつ特徴

シリア芸術はある種現実的
キリストは壮年の盛りにあるシリア人で黒いひげをたくわえ、長い髪をしている。
ヘレニズム芸術では、聖母はチュニックと被り物、耳飾り。
他方、エルサレムの芸術では、聖母は長いヴェール(マフォリアン)で包み、髪を隠し、全体の輪郭に慎み深い会優美さを与えた(p91)(シリア芸術の現実味、地方色)
パレスティナの芸術で印象深いのは壮大さという性格、壮大な均整美、荘厳さ(ヘレニズム芸術では実現できなかった性格)
オリエントが考え続けた「神の母」→ 壮麗な玉座の聖母の原型の誕生

6世紀に二つの芸術がまじりあい始める
ラヴェンナのマクシムアヌスの象牙の椅子などはキリスト教ギリシアの伝統とシリアの伝統が合流した作品
時代が下れば下るほど、エルサレムの芸術の影響が増してくる。(p93)
ギリシア芸術の慎み深さ、シリア芸術はそれとは逆(p96)
12世紀のフランスの芸術家たちもまた、写本画家たちから教わった二つの伝統を分け合っていた。(p98)
西欧はこれらの二つの伝統のうちの一つを選ばねばならなかった。
西欧は早い時期にヘレニズムの美しい定型を捨てた
(p122)

 ・・・

第3章 フランスの芸術家たちによるオリエントの図像の修正

フランスの芸術家たちによって単純化された「降誕」図
「キリストの降誕」に取り入れられた新しい要素
「最後の晩餐」の新しい表現
ユダにパン切れを与えるイエス
「黄泉に下る」とレヴィアタンの口
「羊飼いのお告げ」における牧歌的魅力
単純化された「受胎告知」、 「御訪問」に付け加えられた微妙な差異、改変された「キリストの変容」

第3章の図版・・・10
Gilabertus - Chapiteau engagé de colonnes jumelles , La Mort de saint Jean-Baptiste - Musée des Augustins - ME 31 (2)
図95 ヘロデとサロメ、 トゥルーズの美術館https://www.augustins.org/

図96 イエス・キリストの墓に入る聖ヨハネ、
 トゥルーズの美術館Musée des Augustins

図97はシャルトルのステンドグラスのパネルの「降誕」

今やそこには聖母と聖ヨセフと幼子しかいない。
聖母はもはや、藁布団の上に横たわってはいない。フランスの芸術家たちは、地面に投げ置かれたこの袋のようなものの上に横たわる聖母を見るに堪えなかったに違いない。こうした惨めさが、神の母にはふさわしくないと思えたのであろう。(p169)


Chartres 50 - 7b - Baptême du Christ
図98 イエス・キリストの洗礼、十二世紀のステンドグラス、シャルトル

「イエス・キリストの洗礼」
「洗礼」の場面は「降誕」の場面ほどには改変されることがなかった。(P171) しかし細部には手を加えた。

オリエント芸術では、「イエス・キリストの洗礼」に立ち会う天使たちは両手を覆い隠していた。オリエント芸術では、それは礼拝の形式の一つなのだ。

ギリシアの修道士芸術家たちは、時代が下ってもなお、「洗礼」の時に天使たちがキリストの体を拭く準備をしているのではなく、敬意によってその両手を覆い隠していたのだということを良く知っていた。
オリエントの儀礼を知らなかったフランスの芸術家や聖職者たちは、天使たちがその両手に支えもっているヴェールの意味が解らなかったようである。

1150年頃のシャルトルのステンドグラスのパネルに、キリストのものである長いチュニックを手に持つ天使がはじめて現れた。

Chartres-051 - b1 - Cène
図99 最後の晩餐 十二世紀のステンドグラス、シャルトル

「最後の晩餐」
ギリシア人たちによって生み出された「最後の晩餐」図はなお異教文明の痕跡をとどめており、半円形の食卓はΣ(シグマ)の形を成していて、イエスと使徒たちは古代風に寝台の上に横たわっている。
ラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会にある六世紀のモザイク図もまたこのような形をとっている。
唯一の食糧として目に入る食卓の中の魚
過ぎ越しの子羊の代わりに置かれている魚が象徴的な意味を持つことは疑いえない(自分自身の肉体を彼らに供している)

シャルトルのステンドグラスに見られるような十二世紀の図と対比してみると、そこではすべてが新しい。
会食者たちはもはや横たわるのではなく腰かけ、イエスも食卓の片端ではなく中央にいる。
かって見分けのつかなかった聖ヨハネは、今や態度によってそれと知られる。なぜなら、彼は種の胸のあたりに頭を持たせかけているからである。

ただ一つの細部だけが過去とのつながりを示している、
それは食卓の上の魚の存在である。
とはいえ、ここに見られるのは完全な創造ではなく、いわば一つの編集である。諸特徴は、それ以前の芸術の中に既に存在していた。( 『ロマネスクの図像学』上巻第3章p169)

Frise ND des Pommiers 1
図100 最後の晩餐、ボーケールのノートルダムのフリーズ
Collégiale Notre-Dame-des-Pommiers de Beaucaire
Frise romane de l'église Notre Dame des Pommiers à Beaucaire

西欧は聖マタイのきじゅうとぉ聖ヨハネの記述によって補った。
オリエントはこのエピソードを決して表現しなかった。ところがしえ王の技術形はそれとは逆に、聖ヨハネによる一説を文字通りに表現した。
ユダの聖体拝領、それはキリスト教徒にとって涜神的な聖体拝領のおぞましい光景なのである。

ユダを使徒たちの間に、キリストの右側か左側に座らせた。しかし、それでもユダの聖体拝領を表現することをやめなかった。家砂その旨にもたれかかる聖ヨハネの頭越しにユダにパン切れを差し出している。プロヴァンス派によって採用された形式がこれであった。(p176)


図101 黄泉へ下る、リモージュのサン・マルシアルに由来する写本
十二世紀末のフランス写本
Abbaye Saint-Martial de Limoges

オリエントで生まれた図像だが、それを変形させた。
勝利者のように冠を戴いたキリストが、長い柄のついた十字架で、その足元に横たわるサタンを突き刺している。ここから先フランス芸術はビザンティン芸術と袂を分かつ。

聖人たちは永遠の生命においてそうであるごとく裸である、イエスがその手をつかんでいるアダムは、罪を犯す前の姿に戻っているのである。(p178)
これは全く新しい着想であり、ギリシア的崇高さにおいては劣るとしても、教義においてはより豊かである。
なぜなら、キリストの言葉によって開かれ、その獲物を吐き出す怪物のあご、この恐ろしい死者の国の入り口は、『ヨブ記』のあのレヴァイアタンの口なのだからである。

「黄泉へ下る」でオリエントの手本を変容せしめたのが神学教育であるなら、「羊飼いへのお告げ」においては、それは生活感情である。

原注:Histoire de Jesus-Christ: En Figures Gouaches Du Xiie Au Xiiie Siecle Conservees Jadis a la Collegiale de Saint-Martial de Limoges (French Edition) から。
Christian Symbolicの研究:1856年と1857年のルーアンのサン・アマンのティロン・エドの十字架についてのレポート(French)
by Auguste Bastard (1792-1883)非常に質の高い写本の複製コレクションを作成した19世紀のフランスの美術史家

025 La Charité-sur-Loire Frise sculptée de la porte de l'abbatiale
右側 図102 降誕、羊飼いへのお告げ、
左側 図104 受胎告知、御訪問
ラ・シャリテ・シュル・ロアールの扉口(北側廊)の楣石
La Charité-sur-Loire

牧歌的なのどかな雰囲気をたたえている。
老人はフード付きのマントと長いゲートルをつけ、若者は両足の周りに細い布を巻き付けている。それは深夜ミサに向かう古きフランス農民たちの姿なのである。(p181)

ヘレニズム都市で直送された「ご訪問」の場面では、二人の女性がたがいに向き合い立っている。エルサレムやシリアでは、、彼女たちは接吻しあい抱き合っている。
フランスの芸術家たちは、二人の女性を互いに向き合う形に配したが、手を取り合うことで二人を結びつけるか(図104) 、あるいはパリのノートルダム大聖堂におけるように(図44)互いに手を差し出しあう姿で表現した。

これまで上げてきた多くの例は 、十二世紀 フランス芸術がオリエントン芸術にただ盲従していたのではなく、多くの場合、ギリシア的天分とオリエント的天分に西欧の天分を付け加えたものであったことを示している。(p186)

以下の章の
第4章の図版・・・16
第5章の図版・・・21
第6章の図版・・・26
→エミール・マール『ロマネスクの図像学』(上)を読む、その2へ
翻訳者追加の図像は又別に、
クリュニー系修道院を見る


『ロマネスクの図像学』(下)を読む に続けます。(20181201現在内容なし)
エミール・マールを読むに戻る
アーウィン・パノフスキーを読む
古代ギリシア芸術(4様式)

『ロマネスクの美術』 (馬杉宗夫著 2001 八坂書房)を読む
『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史』(酒井健著 2000 講談社)を読む

神話学のアウトラインギリシア神話の美術研究に続く・・

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追記
Anonyme - Chapiteau de pilastre , Rinceaux sortant de gueules - Musée des Augustins - ME 16
Anonyme - Chapiteau de pilastre , Rinceaux sortant de gueules - Musée des Augustins
オーギュス譚美術館のこれであるが・・これはまさに・・
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