豹の毛皮を着る事の意味を見ているうちに、すごい「怖い」ところに紛れ込んでしまいました。
この本でした。
「毛皮と皮革の文明史–世界フロンティアと略奪のシステム–」下山晃著
おそろしい!ヒトの皮を着る神・・・・
この本からの「人間の脱皮」や「最古のモード カウナケス」「羊毛」の話を以下に見ていきます
第1章 原初心性と毛皮・皮革
1.裏返しの死衣
ベックマンの奇妙な記述
原初のシンボリズム
(引用は割愛)
2 ケモノをまとう心性
(p40) 我々に最も異様な印象を与えるのは、人間[捕虜・奴隷。生贄]の皮を剥いでまとっていたとされるアステカの神シべ・トテックの伝承である。
人の生皮を二重にまとう姿を描いたその神像は、如何にも「異界の者」の相貌である。ヒトの目や口が二重になり、「人間の脱皮」を表しているかのようである。
(p41)シペ・トテックは古い作物(トウモロコシ)が春に生まれ変わる象徴であると解釈されている。
毎年、春の晩種の時期に生まれ秋の収穫期には「死」を迎えて、翌年にまた生育と稔りと収穫を繰りかえす穀物に、太古の人々は死んでは再生し復活する穀物神の存在を実感していたのである。
(p42)毛皮や生皮を被るということは、とりもなおさず祖先の霊が宿る動物・動植物とこの世の自分が一体化することであり、死と復活と再生の霊魂のサイクルの中にわが身を置くということであった。 (仮面、動植物の模様を模した入れ墨、動植物の脂肪から得た香油を塗る、キリスト教の端源の一つ)
大阪商業大学 下山晃の著作目次
(本では白黒のカラー画像を見られます)
目次&シペ・トテック像
ケモノをまとう心性 [死と再生の神]についての言及に加え、シペ・トテックの像が見られる。目や口の周り、首筋を見ると、皮を被っているため二重になった様子が判る。左手部分の皮は外側に垂れている。(Wikipedia)
シペ・トテック(Xipe Totec)はアステカ神話における穀物の神である。 「皮を剥かれた我らが主」の意。
第2章 原始・古代
1.先史時代
最古の衣類
狩猟民ネアンデルタール人の「毛皮葬」
最初の職人技を生んだ毛皮
4.古代アジア
狩猟と王権:結界としての猟場
紫野の恋歌
トラのシンボリスム
(引用文献の一部) ヨハン・ベックマン『西洋事物起源』(1982)(岩波文庫第4巻)
ドイツの技術学の創始者,ヨハン・ベックマン著(1739-1811)
(ハロルド・.イニス『カナダにおける毛皮交易の歴史』
('The Fur Trade in Canada: An Introduction to Canadian Economic History', 1930.)
トロント学派:Harold Adams Innis, 1894-1952
ロール・ドゥロール『動物の歴史』
●エルンスト・カッシーラー『シンボル形式の哲学』(岩波文庫)
●ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』
●マンフレート・ルルカー『鷲と蛇:シンボルとしての動物』(1996)
●井本英一『習俗の始原を訪ねて』(1992)
●ユング『心理学と錬金術』(1976)
●芳賀日出男『ヨーロッパ古層の異人たち』(2003)
この章、大変興味深いのだが、以上の引用は割愛して、以下の第2節と第3節のみ見ます
第2章 原始・古代
2.古代オリエント(p66-86)
最古の基本モード:カウナケス
歴史としての聖書と毛皮
ケモノの宝庫:古代エジプト
皮革 文化の展開
最古の基本モード:カウナケス
最古の都市文明シュメールの時代からオリエント一帯で一般的となり、その後実はヨハネの象徴、牧人のシンボルとして、5000年もの長きにわたってヨーロッパの服飾文化を代表した
歴史としての聖書と毛皮
毛皮着が、イチジクに次ぐ第2の衣料とされている
ケモノの宝庫:古代エジプト
動物が神の域の主役
その動物の皮をまとうことは、単なるファッション以上の意味付けが規定され、毛皮を纏うものは一種のトーテム神となり、また動物は単なる動物以上の存在となる。(�p76)
古代王朝の上流僧、特に神官や神官と同様の職務を与えられた貴族たちは、肩にヒョウの毛皮をまとうのが通例であった
全体に縫い目はなく、4本の脚と尻尾はついたままで、表面はきれいに手入れが行き届いて高貴な身分にふさわしい威厳と見栄を誇っていた
ヒョウ柄ロシマウマ模様は見る者の目に特異な印象を与えるもので、その特異さはそのまま身分の特異さを表現するものであったと思われる(p80)
(:ミシェル・パストゥローMichel Pastoureau 『悪魔の布 縞模様の歴史』松村剛訳白水社19963)
豹の毛皮を着ることの意味をこれまで見てきました
(引用文献の一部)●西村三郎『毛皮と人間の歴史』(2003)
●『プリニウスの博物誌』(1986)
●塩野七海『ローマ人の物語』Ⅳ(1998)
●ホメロス『オデュセイア』
●アポロドロス『ギリシア神話』(岩波文庫)
ブルウィンチ『ギリシア・ローマ神話』(岩波文庫)
タキトゥス『ゲルマーニア』(岩波文庫)
●ミルチャ・エリアーデ『イメ―ジとシンボル』(1971)
(p79)繁殖力が旺盛で多方面の生活に役立つヒツジはもっとも大切にされた聖獣であった
ここで、ヒツジの話だが、 カルナック神殿のヒツジのスフィンクスとか、キリストの一匹の迷った羊のたとえとか、実感がなく、よくわからなかったのだが、 「最も大切にされた聖獣」ということで多少はわかった?
■ひつじnews さんち
https://www.hitsuzi.jp/date/2009/01
以下、第2章からの補記となります
(p66) 2世紀のギリシアの修辞家ポルクス(エジプト生まれ)
カウナケスという呼び名の毛房の垂れた衣服の話
カウナケスの毛房は、「兵士を鎧の様に覆い、また着るものをケモノの化身のように見せかけた」
『服飾の歴史』(ミシェル・ボーリュウ)の下記記述は間違い・・
「カウナケスは紀元前2400年ごろのグデア王の時代にはすでに日常の衣料から消え去っており、ただ神や女神たちの象徴的な服装としてのみ存在している」
カウナケスは、最古の都市文明シュメールの時代からオリエント一帯で一般的となり、その後実はヨハネの象徴、牧人のシンボルとして実におよそ5000年もの長きにわたって中近東およびヨーロッパの服飾文化を代表したものであった。
ここら辺を確認すると、ヒツジを背負った良き羊飼いの図像を即座に思い浮かべるのだが・・
San CallistoのCatacombsからの
Good Shepherdのフレスコ画
残念ながら、牧人のシンボルとしては どうも著者の主張を確認できない
牧人のシンボルとは羊を背負うことであって、衣服は「カウナケス」であるようには見えない
ヨハネは、イエスの使徒のヨハネでなく、洗礼者ヨハネで、Saint John the Baptistの図像の方を見ると
Slavic Orthodox Churchセルビア正教会
Retable of Saint John the Baptist by Blasco de Grañén
,
San Diego Museum of Art(14世紀)
洗礼者ヨハネの像では、以上のように、毛皮を着ていることが確認できた
しかしこれを「カウナケス」というのかどうか?
(p66)古代・中世ののキリスト教社会にあっては、カウナケス仕様の衣服をまとうとは、いわば「ヨハネと共に在る」ということであり、
洗礼者ヨハネがイエスを指して「神の子羊(アニュス・ディ)」と喩えたこと(『ヨハネ福音書』1-29)等が想起される
(p67図)
ミシェル・ボーリュウ 著 「服飾の歴史 (古代・中世篇) (文庫クセジュ1974)の件は、1967年にフランスで刊行された「LE COSTUME ET MEDIEVAL」の日本語訳で、「フランスに偏った内容」とのアマゾンの書評であったが、だいたい、
『西洋服飾史』という名の本は、古代の歴史的衣類についてきちんと吟味しているものは多くなく、コスチューム、とか、時代のファション史という方面がメインで、興味がまり共通していない。例えば、丹野都編著『図説西洋服飾史』だが・
「布を巻くだけの衣服で、飾りとして布端の糸を房飾りとする手法は、古いころの衣服に見られる」という記述であるが・・・カウナケスとは単にそういうものであったのか?
カウナケスのもともとの起源は定かではない
確かにそういうことになってしまうと思うが
「新石器革命」による生活革命が進行して農耕文明の時代に入り、様々な家畜の飼育が社会の中で重要度を増すようになると、毛皮のモードに山羊や羊の毛皮を利用して房状に束ねた衣料、すなわち「カウナケス」と総称される典型が生まれた
この「カウナケス」を基本とした形態は、人類最古の都市文明を築いたシュメール人の時代から古代・中世を通じて実に5000年ちかくにわたり主要な衣服形式として生き続けたスタンダード
(p68)前3000年~前2500年ごろのシュメールの遺跡からは、うろこ状束ねられたヤギやヒツジの毛皮着(すなわち)「カウナケス」をスカート状に巻きつけた人物像が続々と発掘された
少し時代を下ると、規則的な房毛の配列を持った類似の形式の服地が「カウナケス」として総称されるようになった
この時代にも、呪術的なメンタリティは衣服の様式にはっきりと投影されていたことが推察される
なるほど・・・
(p69)紀元前の2885年ごろからは、毛皮や羊毛が組み合わせ服として縫い合わされ、小型のマントやショールが広く見られるようになった
(p70)前2400年~前2100年の間には、カウナケスはクレタ文明の世界にも伝播し、その後広範な地域にわたって西南アジア起源のカウナケスの影響が及んだ。
※20,000 Years of Fashion:The History of Costume and Personal Adornment : a dictionary of western fashion from ancient times up to the 1960s, edited by Francois Boucher and his longtime assistant Yvonne Deslandres.
カウナケスはギリシア・ローマ世界を通じて紀元後のキリスト教圏にも持ち込まれたが、そのチュニック(短袖付きのT字型衣装)が中世キリスト教社会に入って聖ヨハネひいては羊飼いのシンボルとして受け継がれたのである
(F.ブーシュ『西洋服飾史』
(p70)ヤギをまねて始まったシュメールのモードは、文明史上もっとも古い時代に「流行着」の祖型となったものであり、史上最も長い寿命を持つに至った基本モードであった
チュニックについて、これをカウナケスを受けついたものというあたりの論拠は、これだけではいまいちわからなかったのだが?
F.ブーシュ『西洋服飾史』―先史から現代まで (1973年)
-石山彰監修p41-51
上の本はなかなかな参照できないので、この本も参考文献の一つとなっている、『古代オリエント事典』(オリエント学会編2004岩波書店刊)の衣類の項目を見たい。
(「古代オリエント事典」p153 坂本和子)
(総論)p153
古代オリエントの衣服で完形のまま残存するものはない
そこで当時御衣服が再現されている彫像をもとに考察することになるが、それは主に神や王などの彫像であるから、その衣服といっても高貴な人物のそれが中心とならざるを得ない
前3000年紀
人々はまず身近にある山羊、羊の毛皮を身に着けた
織技術が発達してくると、長い房を段状に結んで毛皮のように見せかけた織物のカウナケスを作り出した
ウルのスタンダートの平和の場面で、王は上半身裸で足首まである腰布をつけ、兵士は膝までのフリンジ付きの腰布をつけている
王も兵士も腰布をつけているが、重層の毛房のあるのは王だけ
この時代の衣服は毛房のある腰布に始まり、斜めに巻き左肩にかかる巻き衣、全身を覆う毛房の衣と変化を見せるが、概して、女性(女神)は体全体を覆うか、左肩を覆い下に垂れる巻き衣で、男性も神像や奇人は斜めに巻き左肩にかけ、左腕を覆っている。
少し時代が下ると巻き衣の巻き方も複雑になってくる。やがてこの腰回りの着付けはアッシリアの衣服に受けつかれていく。
(「古代オリエント事典」p153)
前2000年紀
バビロニア時代は前2000年に始まるが、衣服の流れはそれ以前から変化を見せる。グデアの衣服がそれである。前3千年紀に見られた毛房のあるカウナケスから、布端にフリンジのある幅広の長方形の布で体を巻き、左肩と左腕にかけるスタイルに変わる。(ハンムラビ王はこのようなスタイルであらわされる)
前2千年紀末になると書記の王の衣服とは全く様子が変わってくる
マルドゥク・アヘン・ナッヘは半袖で踝まであるチュニックに腰の周りにフリンジ付きのショールを巻き太いベルトで固定している
ここまで見ると、共通点としては、腰の裾のフリンジの存在ということで、、それを以てカウナケスが衣服として5000年にわたり続いたといえるかどうかは少々疑問だが、この点で、「史上最も長い寿命を持つに至った基本モード」という言い方は許されるのかもしれない。(あまり納得できないが)
ズボンとリボンの話そのほかのオリエント~ペルシアの衣類の図像等は別にこちらへ
以下、紡錘車と毛織物、について少々追記しておきます
(総論)p210
天然繊維を撚って糸にするときに用いる紡錘車は新石器時代の早くから出土例がある
(ジャルモ 前7000年期)
植物繊維として最も早い出土例は前6000年ごろのチャタル・フュックの麻
羊の飼育は前9000年のシャニダールに遡るものの、羊毛が織物の素材とされたのはいつからかわからない
カウナケスが見られる前3000年期には、明らかに毛織物が存在した
第2章 原始・古代
3.古典古代(p87-107)
野蛮人の毛皮
求むるは荘厳(グラヴィタス):カエサル時代の毛皮
神話と古典に見る毛皮
(p87)古典古代(前8世紀頃~後4世紀末)
中世ヨーロッパでは毛皮が富貴のシンボルであり何よりのステータスシンボルであったのに対し、古典古代のギリシア・ローマでは「野蛮人(バルバロイ)の衣服」とみ見る見方と「英雄にふさわしい衣装」とみる両面的な見方が併存していた
ヨハン・ベックマンは「古代の著作の中には毛皮に関する記述がたくさんありすぎて、すべてを集めることは到底できない」と書いている
アリストテレスやプラトンの身勝手な「野蛮人」観
ヘロドトス(前484頃~前425頃)アザラシの毛皮をまとう「カスピ海周辺の野蛮人
アリストパネス(前448年頃~前380年頃の『雲』:「毛皮はまずしき者や田舎者のシンボル」
ストラボンやクラウディアヌス、アンブロシウス言及の「ビ―ヴァー」皮の角帽
プリニウス『博物誌』第3巻 ウサギの毛皮
ベックマンの『西洋事物起源』の最終巻(四)(岩波文庫 特許庁内技術史研究会訳2000)を、見てみた
ベックマンによる毛皮の衣服の起源を読む
(Wikipedia)ビーバーの毛皮は柔らかいため、帽子の材料に用いられた。現在シルク・ハットと呼ばれる円筒型の帽子(材料にかかわらず「トップ・ハット」と呼ばれる)は、元はビーバーの毛皮で作られていた。ビーバー・ハット (beaver hat) 、ビーバー・ハイ・ハット (beaver high hat) 、あるいは俗にカスター (castor) とも呼ばれたこの帽子は、17世紀以降作られ、長い間紳士には必携の帽子だった。このためビーバーの乱獲が進み、19世紀前半には年間10-50万頭が殺され、ビーバーの生息数は絶滅寸前まで減少した。
(p90)ホメロス(前9世紀=前8世紀ごろ)『オデュッセイア』の主役・英雄たちは皆、立派なライオンの毛皮や豪奢なトラの皮を被り、ポリスで名誉ある地位を得た元老院議員たちは、ローマにおけるのと同様「毛皮(パレッティ)を着た方々」、「毛皮外套(パリ―ス)を持つお歴々Pellite」と呼び慣わされていた
(p91)共和制ローマ(前510~前27)では女性用奢侈品として毛皮が重宝がられる時期があり、続く帝政期以後、徐々に上流階級への普及が見られた。
ロ―マ領内にはたびたび「蛮族」たちが侵入したが、彼らはいずれもローマ人が見たことさえないすばらしい毛皮を身にまとっており、遅くとも紀元後2~3世紀にはローマ人もその魅力のとりこになっていたらしい。
(p92)広大なローマ帝国を潤した最初の遠隔地交易品は概して琥珀や塩、鉄、それに毛皮や奴隷であった
(p95)中学や高校の教科書で「三頭政治」の立役者として太字で強調されるカエサルをイメージする限り、またシェイクスピアの悲劇の主人公としてカエサルをイメージする限り、彼の実像は決してつかめないであろう。むしろ、彼はあくなき征服欲にかられた古代世界最大級の征服王であり、貪欲な奴隷供給者であったと考える方が、おそらくは的を得ているのである
なるほど・・シェークスピアの文学は偉大なり・・の思いだ
ローマ法 ローマ社会: 衣服によるステータスの峻別
(p100)カエサルに日常着用が許された見事な鮮やかな紫色のマント
色彩のシンボリズム 紫色:「生の転生・変容をつかさどる色」(事物の目に見えない玄義がそこで成就される色)
イエス・キリストは受難の間紫のガウンをまとう像で描かれるのが決まりとされていた
(p101)アルゴ―船団と金羊毛
[アルゴナウチカ Argonautika]
イオルコスの王子イアソン
黄金の羊皮を取りにコルキス(黒海の東)目指した出帆する
物言う船アルゴー号に乗り組んだのはヘラクレスやオルペウス
コルキスの王女メディアの魔力の助けを得て首尾よく黄金の羊毛を手に入れ、メディアとの間に二人の息子をもうける・・・
R・ドゥローDelort(仏1932-)の推察では金の羊毛=「黒い金or noir」と呼ばれたクロテン(sable)の貴重な毛皮
コルキス=コーカサス南部、毛皮の大産地
アポロドロス「プリクソスは金毛の羊を厄除けの神としてゼウスにささげた」(『ギリシア神話』(高津春繁訳岩波文庫p49-50 )
以下のような記述が、ベックマンの『西洋事物起源』(岩波文庫)にあることを、直接には挙げていないが、ベックマンではなく、イサク・ウォシウス→Robert Delortの説の方に賛成している
(p19)儀式用の服には、ローマ人もギリシア人も、毛皮を全く使用しなかったか使用したとしても後世になってからで、ごくまれにしか使用しなかった
イサク・ウォシウス(Iaac Vossiusオランダ1618-1689)は、金の羊毛の歴史を毛皮の取引に関する最も古い形跡と考えるべきであり、したがってギリシア神話におけるコルキスへのアルゴノーテスの遠征の目的は、商業的な思惑からであったとする
しかしこのようなことはりえないことである、当時の外国貿易においては毛皮の需要はあまりなかったのである
(p102)ギリシア文化は均整の取れた優美な建築遺跡で知られるため、何か洗練された上品な世界を思い描きがちである、あ実際には史上まれにみる典型的な奴隷社会であり、その商船隊は概して、奴隷商人・海賊の集団といってよかった
のちの時代には、この貪欲な海賊根性と、聖書の積極的な自然征服観とを錦の御旗に、近代毛皮猟が進展した
ホメロス「イリアス」:古代ギリシアでは戦闘の指揮官が毛皮を威嚇や勇猛のシンボルとして身にまとったことがわかる
クセノポン(前42~前355年ごろ)『狩猟論』:狩猟愛好家の貴族の手本書
ベストセラーノンフィクション カエサルの「ガリア戦記」:毛皮関連の記述が若干存在する・・ ウエネティー族が船の帆に「ケモノの皮か薄くなめした皮」を利用していた
p106 怪物アザラシ
タキトゥス「ゲルマニア」末尾「彼らはみな不潔。フェンニーには驚くべき野獣性feritasと悲惨な困窮とがある、武器なく、馬なく、我が家なく、食うに草、着るに毛皮、寝(いね)るにはただ大地」・・地の果ての地方の住民を「野蛮人」とみなし、野獣同然の一種の「化け物」と考えていた=野蛮な野蛮観
引用まとめは、このあたりまでとしますが、
あと、この本から、2~3追加したい。、ダ・ヴィンチの話と、人の皮を着た神の画像リンク
(第3章p170)
謎多きこの天才が、生涯を終えるにあたって書き留めた言葉・・「侍女マトゥリーナに、毛皮の裏のついた上等な布地の黒外套を贈与する」(1519年4月23日)
・・と、上質の毛皮外套が一介の侍女に形見分けされた
国王でさえ一匹のクロテンの毛皮に対して大工の日当の1000倍もの大金を払っていた時代にこの遺言が書かれたことを記憶しておきたい
以下で「カウナケス」を着た像を見ておきます
羊の毛皮の衣装をまとう姿の石製婦人坐像
ミホミュージアムの収蔵品
紀元前三千年紀後期~前二千年紀初期
西中央アジア、羊の毛皮の衣装をまとう姿の石製婦人坐像
開館15周年展ポスターより
「カウナケス」と 同時期であるアイスマンの服装について追記
(Wikipedia)1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷(海抜3,210メートル)の氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラ
靴は靴底が丈夫な熊の毛皮で作られ、中には防寒の為か藁を詰めてあった。革のゲートルを着用していた。草を編んで作った服の上に外套を纏っており、外套は色違いの革を縦縞模様に継ぎ接いで作られており、ベルトにはフリントやスクレイパー、乾燥したキノコなどが入った小さい袋がついていた。頭には熊の毛皮で作られた顎紐付きのフードを被っていた。
先史人類が着た衣服、服装の起源を探る(ナショナルジオグラフィック)
先史時代の人々を描いた想像図などでは、粗雑な毛皮を身にまとう姿が大半だ。だが考古学的資料から判断すると、2万5000年前には、既に複雑な衣服が作られていたとサイクス氏は指摘する。
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